2010年10月アーカイブ
このところ日記が叙情的なものばかりになっているが。
感情の動きを記録できるようになったというのも進歩と思って綴ることにする。
「心がきれいだったころの自分を思い出す」というつぶやきを目にした。
そんなことを言える人はまだ心がきれいであるに相違ないのだが、果たして自分にはあったか。
なかった気がする。いや、まだないのかもしれない。
閉ざしていて動かさない心にきれいも何もあったものではない。
あるかないかすら疑わしいようなもの。
それでも、その当時からの友人も数人ながらいてくれる。
最近また一人、旧友がついったーに現れた。
同業でも愛鳥家でもない人はほとんど見ていないのだが、彼女は外せない。
何かの情報源になるわけでもなく、慰め合うような関係でもないのだが。
恐らく本来の友人関係なんてそんなものだろう、と今なら納得できる。
少しでも心というか社会への目を開くと、さまざまな人間関係ができてくる。
定義ができている関係、既存の定義にあてはめられる関係ばかりではない。
名札を作って貼ることで整理できるものもあれば、そうでないものもある。
整理したら終わってしまいそうなものも。
対人関係に限らないのだろうが、起点はやはり自分の眼差しなのだろうと思う。
直視するばかりが正しいわけでもないが、遠くから眺めるだけでは分からないことも多い。
本来ならそういう整理は青年期の葛藤を経て身につけられるものかな、と他人事のように思うなど。
関西学院大学「言語コミュニケーション文化セミナー・入試相談会」に行ってきた。
「人間の言語本能と文法現象」の講義はとても面白く、夢中でメモツイートをした。
終わってから見直してみると、公式ページにある概要以上のものは出てこないことに気づいたため、ここでは再掲しない。
それから院の概要と在学生によるキャンパスライフ紹介などを聞いて、個別相談会へ。
実は相談会の直前まで、かなりここの大学院に挑戦する気でいた。
言語学って面白い、掘り下げてみたい、あれもこれもやりたい!と思っていたのだが。
いざ「ご相談は?」と聞かれると、実は何も言えない自分がいた。
やりたいこと、研究したいテーマ、進学の目的、どれもまとまっていない。
先生も先輩(?)も決して邪険にすることなく話をしてくれたが、要は心が決まってからにすべきだと。
興味のあることを洗い出して、入門書を読んで、師事する先生を検討するようにとのこと。
言われてみれば至極ごもっともなのだが、その瞬間は少し落ち込んだ。
結局のところ、私のしたいことは恐らくキャンパスにはない。
恐らく、としか言えない散逸ぶりが切ないところだが、まずは入門書を漁るところから始めるか。
「本当にここでお役に立てそうなことがあるなら歓迎しますよ」の一言が耳に痛かった。
再びUstream出演をすることになり、出向いたはいいが名刺を忘れた。
弁護士先生にお会いできる貴重な(少なくとも初めての)機会なのに我ながら迂闊だ。
頂戴した名刺のアドレスにメールをしたものか、書くことがなくて迷ってしまう。
先生はさておき、初対面の方はもう一人いらした。
進行役の社長がかつて講師を務めたセミナーつながりだそうだが、自称「駆け出し翻訳家」。
話を聞いてみると確かに翻訳業務歴は短いようだが、明らかに私より年上だった。
その方から頂いた名刺に、とりあえず目が点。
見たことのない肩書きが踊っている。
当人いわくお遊びで、ちょっとした洒落でつけたものだそうだ。
なるほど名刺交換そのものを話のきっかけにするには役に立つのかもしれない。
でも私には真似できないなと思う。
名刺で遊び心を表現するのは大人の余裕なのかもしれないが、露骨に遊んでいいものか。
渡した相手が見直した時に「あいつがあれか」と思い出してもらう印象として選べない。
よほど話し上手で相手に溶け込めるなら、うまく使いこなせそうなものではあるが。
昨日はついったー上の同業者達がすごいことになっていた。
一人のつぶやきが次々と作品を呼んで、翻訳川柳が大流行。
私も最初のうちは面白がって連投していたが、それにしてもあちこちから出るわでるわ。
不平不満、愚痴、自嘲がどんどん五七五に切り出されてはつぶやかれる祭り。
よほど溜まってるものがあったのね、という感想もちらほら見受けられるが、それだけではないと思う。
発信(発散)したい気持ちと、いつも(140字)より厳しい字数制限(川柳ルール)とすぐ返ってくる共感の言葉。
そして皆さん言葉が商売なだけに秀逸な作品が多い。
同じ現象を同じ文字数でつぶやいても、詠み手が違えば表現は違う。
どこに焦点が合っているのか、どこを切り取りたかったのか。
中には失礼ながら風情のない切り方の作品もある。
詠まれている心象風景は暗いながらも、笑ってしまえる一句に昇華した作品もあった。
よく考え、よくまとめ、よく表現したものだと笑いながら感心することしきり。
やるよーと声を掛けた人がいるわけでもなく発生し、大流行した、とびきりの祭りだったと思う。
昨日の日記(ではないか)もろもろをご覧になった皆様、ご心配おかけしました。
とは言え何も間違ったことを書いている訳ではないので、削除せずそのままにしておきます。
自分で思っていたよりも気に掛けてくださる方が多くて、...うまく言葉になりません。
改めて自分の社会性の乏しさと仲間の有り難みを実感した次第です。
呆れられた向きも多いかとは存じますが、どうか見捨てずおつきあいのほどを。
いつものようについったーを眺めていて、急に、全ての会話が遠く思えた。
たくさんの人々で賑わう公園を横目に、一人で通り過ぎるような感覚。
それぞれの会話に気をつければ聞き取れないこともないが、参加できそうな話題もなく。
黙って聞き耳を立てているような自分が、無性に厭になった。
全く当然のことだが、私が参加しなくてもその世界は普通に回っている。
現実と違うのは、発言さえしなければ自分の存在が誰からも見えないことだ。
不気味がられることもなく、通報されることもなく、いつまでも存在し続けることができる。
誰にも気づかれることもなく。
ただ見ているのも虚しくなったので、しばらく画面を閉じてみることにした。
一晩たっても、虚しさが癒えることはなかった。
自分への返信もほとんどなかったが、原因はそこではない。
いつもなら遡ってでも読んでいた発言の主が、大変なことになっていた。
見ていなかったので、当然そんなことにも気づいていなかった自分。
気づいたらすぐに何か声をかけてあげられたかもしれない。
あるいは、まだ話しかける余地はあるのかもしれない。
でも、そうすることに果たして意味はあるのか。
逆撫でしてしまうかもしれないし、傷を広げてしまうかもしれない。
私がその人から見えないのと、どちらがましなのだろうか。
半面、大事な人をかばうことすらできずに、私がそこにいる意味があるのか。
意味もなく存在することが許せない自分がいる。
現実と違って、自主参加の世界だから。
画面の向こうにその世界があるのは確かだが、開かなければ見えず、ないのも同然。
同様に、何も言わない私は誰からも見えず、いないのも同然。
鬱屈した空気をばらまくぐらいなら黙っていようかとは思うものの、それが正しいのかは分からない。
もうしばらく頭を冷やしたら、帰りたいと思えるようになるだろうか。
「...いつまでも悲しみは、悲しいだけじゃないから」
ずっと例の曲が頭を回っている。
ついったーにはクラスタという概念がある。
大辞林 第二版 (三省堂)によると、クラスター [cluster]:〔同じものの群れ。集団〕
ついったー上のそれもまあ集団と言えば集団なのだが、誰がどこのクラスタなのか誰も定義していない。
ごくゆるい固まりを指しているようだ。
私の場合、翻訳クラスタと鳥クラスタに顔を出している。
いずれにもそれなりに結束や連帯感のようなものがあるのだが、特に集団としてのふるまいは見られない。
恐らく、そこがいいところなのだが。
翻訳クラスタは仕事つながり、鳥クラスタはペットないし趣味つながりである。
(逆に言うと、翻訳クラスタのペットはばらばらで、鳥クラスタの職業はさまざま)
私にとっては両者の性質の違いが面白くもあり、時として苛立つ元になったりしている。
どうしても、仕事の性質上もやもやと湧いてくる不平不満はあるものだ。
しかし何しろ孤独な仕事、本来は愚痴のはけ口など望むべくもない。
ところが、同じことを考え思い悩んでいる同業者は案外たくさんいたことが判明。
ちょこっとつぶやくと、たちどころに同情や同調の言葉が返ってくる。
同業ならではと思うのが「あるある」発言。
独特の快感のようなものがあり、自分もよくやってしまう。
みんなそうなんだね、以上でも以下でもないのだが、これがたまらない。
そして、会話が多く「あるある」を投げ合う間柄の人々は、会って話をしても面白い。
皆さん前向きなので、ほぼ何でも笑って流せるから。
尤も、前向きでない人の発言は読んでもつまらないので読み込んでいないというのはあるが。
見ているだけで励まされるのもありがたいし、自分が誰かを励ませていたらとも思う。
みんなひとりでやっているからこそ、なかよしなのかな。
第三者からのメッセージで何となく傷ついて、その旨を漠然とつぶやいてみた。
公にぶちまけたら相手への中傷になってしまうが、誰かに聞いて欲しかったのだ。
気に掛けてくれた人が一人、つい呼び出してしまい応えてくれたのが一人。
それだけで十分すぎる慰めだったのだが、二人とも話を聞いて同情してくれた。
「その優しさに相手が気づいてくれたらいいのに、勿体ない」
唯々諾々と相手の話を聞いてしまうのは、気が弱くて拒絶できないだけなのだが。
それで「何でも聞いてくれる、話しやすい」と思われているものだろうか。
「落ち込んだ時、いらついている時に一声かけてくれる」
まあたいしたことは言っていないし、半分ちゃかすような気持ちで書き込んでいることも多い。
それでも、受け取り手によっては、ありがたい言葉なのだとか。
私から見たら、どちらもむしろ無責任な言動なのだが。
もしかすると他人様も同じようなもので、私が気にしすぎているだけなのだろうか。
まだまだ、社会との距離の取り方が分からない。
東京の同業者が大阪へ遊びに来るというので、梅田で夕飯をご一緒することに。
元・日本人の素敵なお姉様は背中だけで識別できる姿勢美人。
他国に帰化しているため、「外国」の指す意味が日本だったり欧州だったりして面白かった。
年末に日本を離れるというので、お会いできるのはこれが最後の機会かもしれない。
かと言って特に「これが最後」という緊張感はなかったのだが。
せっかくなので大阪らしいものを、とお好み焼き屋へ。
良くも悪くも繁盛店なので、外で待たずに座れたのはいいが、あまり落ち着ける雰囲気ではなかった。
ともあれ、店員さんが焼き上げるお好み焼きは形からして美しい。
焦げもしない火加減だったのに、意外と早く焼けて少し驚いた。
その間、決してお喋りに夢中だったというわけでもないのだ。
初対面の時に感じていたよりも更に控えめな方のようで、向き合ってみると意外にも無口。
あまり女性と話している感じがしなかった。
食べ終わるか否かぐらいの間合いで店員さんが伝票とお冷やをあらために来た。
退出を促されていると強く感じたので、おとなしく離席して精算。
予定のイベントまで時間がまだあるようなので、地下街へ移動してお茶することに。
仕事の受け方やら量やらの話も多少は聞いたものの、主眼はやはり転居を伴う国際移動。
引っ越し荷物が船便だからゆっくりだとか、搬入先が実は未定だとか。
ビザは要らないが住民登録は要るとか。
全く経験も心当たりもない話ばかりだったので、何から何まで新鮮だった。
そこから先はある意味お決まりの、「ついったーと私」。
仲間のつながりかたが面白いよね、いざ会うと名残惜しくて引きずるんだよねといったところ。
引きずるあまり5次会だとか終電だとか、端から見ていても笑ってしまう。
...などと話していて店を出たら、向かいのシャッターが降りている。人のことは言えない。
好きな歌の一節に「大切なものには理由などいらない」というのがある。
最近になって何故かその意味が分かるようになってきた。
理性による判断を超越したところに、「好き、嫌い、大切、要らない」があるのだろう。
自分に自信がないあまり、好意的に接してくれる人の気持ちが分からなくて聞いてしまうことがある。
どうして気に入ってくれているのか、どうして高く評価してくれるのか。
後者の場合は割と具体的な回答をもらえるが、前者となるとそうもいかないことが多い。
「だって、好きなものは好きでしょ。それ以上は細分化できないし、する気もない」
その人自身が、分析を放棄している状態の場合。
感情か本能か分からないが、理屈ではなく答えが出ていることもあるのだということ。
答えが出ていない人は、分析につきあってくれる。
一つずつ丁寧に、こちらの長所を説明してくれたりもする。
それでも自覚していなかったことを指摘されると、反射的に否定したくなってしまうのではあるが。
好きだから、と答えられてしまうと、こちらも思考停止せざるを得ない。
なにがしかの思考過程や経験の整理を経て出た答えかもしれないし、単なる直感かもしれない。
いずれにしても、好き嫌いはまず動かない結論に昇華してしまっていると思う。
はて、自分の好きの持って行き場はどうしたものか。
セルフブランディングなる言葉が最近よく目に入る。
自分で自分に焼き印を押すとは物騒な。なんて揚げ足取りはさておき。
私は「自分が身を置く社会の中でどのような立ち位置にあるかの認識」と解釈している。
「こうなりたい」「かくあるべき」という目標に合わせて設定してしまうのもあり。
「こう見えるのかな」「こう思われていそうだ」という外からの情報で推測するのもあり。
(推測には必ず自分の意思が入るのでよしとする)
そういう認識を持っておくことが、交流する相手に何らかの信頼感を与えるのではなかろうか。
さて、そこで自身はどう認識しているのかと言うと。実はよく分かっていない。
勤めていた頃の考課面談で聞いた評価、最近ついったーで頂く評価、いずれも実は香ばしい。
よくお世話になっている翻訳会社の方からも、ありがたい言葉を頂いたことがある。
しかし、甘言ではないかと疑ってしまって素直に信じられない自分がいる。
皆さん大人なので、他人をなじるようなことは言葉にしないのだろうが。
悲観主義者なので負の言葉を待ってしまっている面もあるのだろうとは自覚している。
たとえ甘言であったにせよ、それすら言うに値しない相手と認識されるよりはましなはずだ。
例外は完璧な裸の王様である場合だが、それはそれでひとつの幸せなので不問に付す。
現実での評価は「孤独を好む職人」、ネットでの評価は「人の輪の中心」とほぼ正反対だ。
複数人からの声なので、どちらも嘘ではないと思う。
そして、二つの「嘘ではないと思う」を「本当だ」に昇華させる過程が、私の宿題。
安易に回答をひねりだして提出すれば許されるものではない、考える過程そのものが課題だ。
暫定結論として、学生の頃までの評価はほぼ関係ない。
良くも悪くもそこをきちんと認識しないと、社会人としてふるまっていることにならないと思う。
