ここ半年で有名な寺社をいくつも拝観してきた。
そもそもが不信心なのだが、得られたものがひとつある。
「あれ」は単なる不運だったのだ。
最初の「被害」を認識してから30年では済まない。
しかも断続的に10年ほど、いじめられっ放しだった。
そして「加害者」は複数だった。
今なおどの件の「主犯格」の氏名も諳んじられる。
しかし、やっと、彼らへの処罰感情を手放せた。
自分に残る傷跡には関わらず。
恐らく彼らに加害の記憶はない。
それどころか私が存在したという記憶もないだろう。
単なる子供の気まぐれが思い出にはなるまい。
たまたま出会った蟻を踏み潰したようなものだ。
それがたまたま蟻でなく私だっただけだ。
黒くて些か異質なので目に付いた、ただそれだけ。
その攻撃の動機に恨みも怒りもなかっただろう。
まして「被害者」が法的な訴えも自殺もしなかった。
よって何ら「罪」の「証拠」もない。
思い出しても不快なだけ、忘れろと言うのは易い。
しかし忘れたものは意図せず思い出すこともある。
だから、自ら手放すことに価値がある。
自ら。
恵みも災害ももたらす自然を祀った神社。
救いを求める感情を束ね、寄る辺を作った仏閣。
自分ではどうしようもないことがある。
信仰はそのやるせなさの受け皿なのかもしれない。
社格の高い神社や人里離れた仏閣は空気が違う。
空気が違うからそこに築かれたのだろう。
敬意を形にする場にふさわしい空気。
敢えて記憶をとどめておくに堪える空気。
そこに昔の人々の思いを形にしたものがある。
こうした場はもう新たには作れないのではと思う。
すがる気はないが、それでも救いは感じた。