早さと速さ

正味A4版30枚ほどの翻訳を中一日で終わらせた。
人様の処理速度は存じないが、早いほうではないかと思う。
よほどの事情でもない限り、指定納期ぎりぎりに納品したことはない。
理由はたいがいの場合において感謝されるから、の一言に尽きる。
そもそもの指定納期が短い案件も多い。
ここ一年は特に大量短納期のものが増えてきた気もする。


そうした時に問われるのは早さ。速さではない。
必要なのは求められた日時に間に合うことであって、処理速度とは違う。
処理速度が大きいほど早く結果を出せることも確かだが、それだけではないのだ。
一日のうち何時間を業務に充てられるか。
仕事が早いと言われる主な要因は、むしろこちらではないかと思う。
特に世話をすべき家族もいなければ、つきあうべき近所関係もない。
好きなだけ仕事をしていられる環境は、実は珍しいのではないか。
あるいは非現実的かもしれない。
分単位、時間単位での処理量が少なくとも、時間を多く取れれば早くはなる。
一方、仕事が速いと何ができるのかというと、自分の時間である(はずだ)。
空いた(稼ぎ出した)時間で好きなことができるはずなのだが、
どうもそこに仕事の続きを放り込んでしまう帰来がある。
かくして早く仕上がり納品した結果、目を疑うと言われると気分は複雑だ。

話が物理的に見えない恐怖

結構な規模の案件が重なってしまったため、先週は珍しく夜更かしをしていた。
何故か二件とも引き合いが夕食後。
最近は涼しくなってから散歩に出ているので、外出中の着電だった。
口頭で文字数と納期だけ言われ、内容も分からず諾否を返答するのは意外に難しい。
いかんせん時間が遅いので即答を求められる。

“話が物理的に見えない恐怖” の続きを読む

どこかではないこことそこ

書類棚を片付けていたら、2年前のフィットネス記録が出てきた。
運動などの記録を見る分には真面目にやっていたようだが、結果指標は一進一退。
「このままではいけない」と一念発起して始めたことはまだ覚えている。
挫折した記憶も力尽きた覚えもないのだが、気づけばその努力は風化していた。
書類を見る限り、2年前~1年前の取り組みに成果があったとは言い難い。
反して現在、体組成こそ測定していないが、体重は明らかに軽くなっている。
特に何か過激なことをしたわけではなく、むしろ地味に自宅で運動をしていただけだ。
気軽でもなく楽しみでもないのだが、日課として定着している。
それまでの失敗と何が違うのか考えてみると、気の持ちようだけだったかもしれない。

“どこかではないこことそこ” の続きを読む

雑音

ここしばらくおかしくなっていて、複数の方に迷惑を掛けてしまった。
どうにか情報を入れて対策を考えねばと思いつつ、色々な本を読むが頭に入らず。
人様に悩みを聞いてもらおうにも、最低限の作文すら組み立てられない始末。
焦るばかりでまともな方向に考えが向かず、気づけば振り出しに戻っている。
何かを考え出すのがいけないのは自覚しつつも、「何も考えない」ことすらできずにいた。


部屋の掃除をして一息ついたところで、ふと電子鍵盤が目に入る。
61鍵しかないので本格的な電子ピアノとは言い難いが、音量調整機能がありがたい。
久々に気が向いたので、手で覚えているソナチネを何曲か弾いてみた。
面白いぐらいに、頭では覚えていない。
「あれ、次は何だったっけ?」と思うところは全く続いていかないのだ。
楽譜を探し出してしばらく読み込んでから、納得して弾き直す。
あれだけ煩くて仕方のなかった内言が、そこにはなかった。
譜面を読み取って手指で再現していく間には、ドミソの文字すらない。
頭を動かしても考え事の要らない活動があったとは、かなり新鮮な驚きだった。
きちんとした音楽には整っていなくとも、充分に楽しめている。
やっと、空っぽになってやり直す方法が分かった。
正解は恐らく他にもあるのだろうが、まずは焦らず。
本来の意味でいい音が奏でられるようになれればと、少しだけ思っている。

ある国際化の現場にて

近所の回転寿司屋に行ったところ、注文システムが刷新されていた。
商品選択パネルの表示が多言語表示になっていたのだ。
大人気ないとは自覚しつつも、ついつい試して遊んでしまう(※ちゃんと使っている)

中国語の品書きは基本的に日本語の品名を簡体字に置き換えたものだった。
翻訳らしい翻訳がされているかというと、だいぶ厳しい状況。
「海老」が「鲜虾」、「生海老」が「生虾」になっている。
逆翻訳すると、前者は生の海老、後者は生煮えの海老。
しかし「海老」にぎりの海老は実は生ではない。
この回転寿司屋に限らず、単に「海老」と言うとボイルされたものを指すはずだ。
つまり、結果として、火の通り具合がむしろ逆転している
些細な問題なのかゆゆしき事態なのか、私には分からないが。
英語版では綴りの間違いもちらほら見られた。
また、誤訳とは断定しきれないのだが「葱」が一括置換したように「green onion」。
これも実物は白葱だからむしろ「leek」だろうと思うのだが、そういうものだろうか。
なお、いずれの言語でも訳出されず日本語のままの商品もあった。


利用客は商品写真と同時に文字を見るので、実害はないのかもしれない。
(海老の件はそれでも心許ないが)
それにしても思わされたのが、メニュー翻訳の難しさ。
文字列だけ渡されたら、「海老」は「鲜虾」、「葱」は「green onion」と訳しかねない。
果たしてこの取り違えを翻訳者個人が防ぐことはできるのだろうか。
せめて商品写真を請求するぐらいはしておかないと、と改めて思った。
恐らく他の機会で目にする翻訳メニューにも似たような現象が起きているのだろう。
利用者と翻訳者、両方の立場に立ってみると気分は複雑だ。

生きているのか微妙な言葉

自宅の共有玄関に「お住みの方の迷惑になります」とかいう張り紙があった。
反射的に「お住み」ではなく「お住まい」のほうが自然かと感じたのだが、由来が分からない。
そもそも「住む」と「住まう」の違いを意識したことがなかった。
試しに「住まう」を辞書で引いてみると


大辞林 第二版 (三省堂)では
すまう すまふ 【住まう】
〔「住む」に継続の助動詞「ふ」が付いたものから〕
(1)住み続ける。暮らし続ける。
(2)(芝居の舞台で、登場人物が)すわりこむ。座を占める。


とある。
住み続けずに住むという状態がにわかに想像しがたいが、語の成り立ちには興味を覚えた。
似た構造、由来の語句には他に何があるだろう?
動詞に「う(ふ)」が付くことで継続を示す別の動詞になったもの。
とっさに思いついたのは「うつる-うつろう」だった。
上記辞書で確かめたところ、正解。
当たっていたのはいいが、意外なほどに他の例が思いつかない。
しばらく考えて見つけた次の正解は「よぶ-よばう」
どうも最初の「住まう」を含め、書き言葉にしか出てこない気がする。
日常会話で発する機会はなさそうな語彙ながら、何となくこういうものは忘れたくない。

対象読者

たいていの入門書は、誰が読んでも分かるように想定した書き方になっている。
前提とされる基礎知識が足りず首をひねることはあるが、読み進めるうち分かることも多い。
少し慣れてくると専門用語の誤植に気づいてしまうこともあるぐらいだ。
しかし専門書となると、やはり前提とされるものについていけないことがままある。
たいていは序文のあたりに対象読者が明示されているので、すぐそれと分かるのだが。
『世界で一番やさしいマンション大規模修繕』なる本を題名だけ見て借りたら失敗した。
対象読者が建築家だったのだ。
しかも半分ほど読み進めるまでその想定が読み取れなかった。
さほど難解な用語や言い回しもなく流し読みをしていて、ある箇所で違和感を覚えたのだ。
読者が管理組合にアドバイスする?
もしやと思って見直してみると、やはり一個の住人ではなく外部の誰かが想定されている。
こんなこともあるものか、と力が抜けた。
体裁がムックで、中身も読みやすいのに、一般書でなく専門書だったとは。
何ら建築に関わりのない私でも、参考になる点は結構あったのでいいと言えばいいのだが。
やはり文章は一部でなく全体を把握しないと危険だ。
仕事の場合、支給される原稿が全文であるとは限らないが。
分からなければ問い合わせる必要を感じた。
それこそあまりに基本的で、同業の誰も意識しない前提なのかもしれないが。

捨象と分析

このところ暇があれば濫読に勤しんでいるのだが、久々に言語学の専門書。
オリンピックの言語学 -メディアの談話分析なる書名に惹かれて手に取った。
学術論文集なので、素人がさらっと読んでいい加減な感想を垂れ流すのは失礼かもしれない。
仕事柄、自分が純粋な素人であるかは首をひねりたいところなのだが。
扱われている「メディア」は新聞の見出し、雑誌・テレビのインタビュー、ブログなど。
頻出単語の統計をとったり、情意装置なるモデルを適用したりして分析し考察したものだ。
日韓の新聞を比較して両言語の特徴をあぶりだそうとするなど、切り口が面白い。
ただ、言語学そのものの素養が自分に足りないのか、見ていて同意できる結論はなかった。
ひたすら、収集されたデータの羅列そのものを眺めている方が得るものは多かった気がする。
もうちょっと調査の手を広げてくれたら、と歯がゆく感じたところも多い。
かといってこれらを引き継いだ研究をしたいかと問われると、やはり首をひねってしまう。
実務家でありたいという意識が顔を出しているのか、自分でも確証はないが。
感じたのは、言語の特徴というより各国文化の特徴ばかりだった。
無意識にそういうものを読み取ろうとしてしまっていたのかもしれない。
それこそ学者でもあるまい、発見はあったのだからよしとすべきなのだろうが。

帰れども

毎年お盆や夏休みの帰省と見聞きするたび悲しくなる。
戦争災害や大規模事故のための嘆きではないので、余りにも小さいが。
もう十年、兄を見ていない。
最後いつだったかを失念していて、また非礼を責められるかもしれないが、いっそ叱ってほしい。
深刻な事情あっての生き別れでも何でもなく、彼は健在である(と母から聞いている)。
私が彼を傷つけたから、姿を見せようとしてくれないだけのことだ。
きっかけは、重要な連絡の遅れだった。
思うところあって慶事を伝えられずにいたのだが、諸事が重なり言わずじまいになったのだ。
あの時きちんと素直に謝れば、こうはなっていなかった。
そんなことを弁解するつもりも正当化できる論拠もありはしないが。
自分に思いつく限り事態をどうにかしようと、何度か手紙はしたためた。
が、内容が歪だったり宛名に誤字があったり、全くの逆効果だったようだ。
宛名に誤字など、客観的にもあり得ない失礼さなので致し方ない。
悪いのは一方的に私だ。
分かっている。
しかし謝ることすら許されない状態で、もう十年が過ぎた。
この上どうしたらよいのだろう。

タフ?

その名も『「もうムリっ!」と思ったら読む本』読了。
具体的に何かに追い詰められていたわけでもないのだが、ふと気になったので手に取ってみた。
標題から察しがつくとおり、ストレス対処の方法論が紹介されている。
要は発想を転換しなされということだが、そう言ってしまっては身も蓋もない。


あなたの周りの「タフな人」を見てほしい。あんがい、「柔らかい雰囲気」の人ではないかと思うが、どうだろうか。(本文P164)
「タフな人」は、自分を責めないという共通点を有している。(本文P166)


ここで「タフな人」と鉤括弧がついているのには意味がある。
周囲からそう言われている、ということの強調だ。
本人がそう意識しているかに関わらず、「タフな人」と評価される人とは。
頑強というより、むしろしなやかな人なのだろうと思う。
まあストレスをどうにかしたい読者に向けて頑強になれと勧める理屈もなかろうが。
あきらめ、妥協、開き直りといったアレな言葉が踊る同書の終盤で「タフな人」が出てくる。
そこにある種の安心感を覚えたということは、この本が効いたということか。