随分と珍しい条件の仕事が来た。
文章の内容はどうということはない国家規格なのだが、
A・新版、旧版の原文と旧版の訳文を支給
B・差分の訳を旧版の訳文に上書き
C・訳文(納品物)での変更箇所の明示、変更履歴管理は不要
D・原稿の変更箇所はAcrobatで指摘(参照用PDF支給)
とまあ、悪くはないものの、個別の条件を見ただけでもちと首を傾げてしまう。
A・新版、旧版の原文と旧版の訳文を支給
原文は新旧ともPDF、訳文はWordファイルで渡された。
幸か不幸か原文PDFはテキストが埋め込まれた形式で、文字列の検索やコピーが可能。
いかんせんリッチテキストに書き出してWinAlignで処理する気は起きなかった。
書き出してから無駄な改行を削除したりする手間が惜しかったためである。
と言うのも、文書全体で約120枚あるうちの約30枚のみが担当箇所で、かつ短納期だったのだ。
約12000字を4日間で、ということだったが、のち1000文字ほど追加。
(支給された訳文が一部欠落しており、担当者がその部分を見つけ出せなかったため)
B・差分の訳を旧版の訳文に上書き
C・訳文(納品物)での変更箇所の明示、変更履歴管理は不要
訳文ファイルを新規作成するのではなく、支給された旧版を更新するようにとの指示。
上記のとおり約30枚のみが担当箇所で、それ以外の部分は編集無用とのこと。
更新せよと言われても変更箇所が誤字の修正だったりして結果的に変らない部分も多かった。
なので変更箇所は飛び飛びになっているのだが、明示しなくてよいというのが解せない。
上から下まで読み下して確認するつもりなのか、変更箇所の管理をする気がないのか。
会社としてどういうつもりなのかが不気味に思えた。
D・原稿の変更箇所はAcrobatで指摘(参照用PDF支給)
これが実はかなり厄介だった。
参照用PDFは奇数ページが旧版、偶数ページが新版となっているのだが、
章節の移動があったりして見開きで比較できない箇所が多かったのだ。
差分箇所には下線が引いてあるという情報だけを頼りに何枚めくったものか分からない。
致し方ないので、まずは担当箇所の新版のみ抽出して訳文と比較することにした。
原稿PDFで下線が全くない箇所は飛ばし、下線が見つかったら該当の訳文を探して比較。
情報が足りないと感じたときだけ旧版の原稿PDFを調べた。
機械的に取得された差分ゆえに当然なのだろうが、比較単位が文字列であり単語でも文でもない。
誤字脱字の修正、言い回しのみの変更など、訳文に反映できない箇所が結構あった。
それでお金がもらえて幸せと思うべきなのか、無駄にすり減った神経を労るべきなのか。
そして誰もいなくな…るのか?
ついったーを不特定多数が集まる公園に喩えたことがある。
誰もが適当につぶやいていて、何か気になればそこに反応する広場。
実際の広場と違うのは、つぶやきの「音量」に大小がないことだ。
自分が見ている限り、誰のつぶやきも同じ大きさで響いている。
だが、受け取る側で感じる濃淡は、やはりある。
気になっている人のつぶやきは真剣に追ってしまうし、自分への返信は大事なものに思う。
そうしていくうち、ゆるい仲間ができたり、ちょっとした友達が出来たりした…つもりだった。
なのに、そのみんながいない。
正しく云えば「みんな」ではなく、あの人とあの人がいない。
たった数人で、合計してもそれほどの件数にはならないのだが、いないと寂しくて堪らない。
他のみんながどれだけいても、声をかける気になれないでいる。
そして今いなくなっている人々も、似たような心境を抱えて去っていった。
うっすらとした居心地の悪さ、自分だけが場違いなような孤独感。
ついったーに参加する動機は人それぞれで、必ずしも交流だけではないはずだが。
だが、特定の交流が途切れたことで空いた穴は大きい。
画面を閉じても、家を出ても、その穴を塞ぐ術を見いだせずにいる。
ほんの一年前は覗きもしなかった世界。
半年前に熱病のように盛り上がり、冷めてきて訳が分からなくなった。
落ち着いた辺りで戻ろうと顔を出してみたら、戻るべきところなどなくなっていた。
そもそも二次元に居場所を求めること自体が不健全なのだろうが、ではどうしたらよいものか。
ついったーに触れる前の自分に戻れるかと言うと、分からない。
その頃の方が幸せだったろうとも思えないのだ。
自分が誰かに放り出されたのではなく、自分のいる世界から人が立ち去っただけのこと。
…留まる決断をしたわけでもないのに、ついて行くことができなかった。
彼らにとっての私は何だったのだろうと虚しく立ちつくしているだけ。
出て行こうとも思いながら、どこへ行けばいいのかも分からない。
心当たりのある方、ご連絡いただけると泣いて喜びます。
にらめっこしない自由
疲れ目と肩こりは職業病だと決めつけていたのだが、直接の原因はパソコンにかじりつく姿勢だ。
仕事がある時はそれもやむなし。
しかし、ふと気づいてみると、仕事もないのにパソコンに張り付いている時間が長かった。
何ら生産的な活動をするでもなく、ついったーを覗いたりメールを待っていたりするだけの時間。
その上、仕事の打診がしばらく入らなかったりすると機嫌が悪くなるので始末が悪い。
これでは自分が昔から忌み嫌うテレビっ子と何ら変わらないではないか。
さりとて他にすべきこともしたいことも思い当たらない、とばかり何年を浪費したことだろう。
そもそも何のためメールを待っているのかというと、すぐに読んで返信するためだった。
考えてみると、すぐに読むという目的にはパソコンは要らないのだ。
携帯でも読めるように転送しておけば、仕事部屋どころか自宅を離れていても問題ない。
原稿が添付されていたりして携帯ではおぼつかない状況になって初めて着席すればいいのだ。
そんな簡単なことに気づいたのは、ごく最近のことだった。
外出時にはだいたい転送設定にしているのだが、それでほとんどの場合は事足りたのだ。
所用があったり散歩をしていたりする間は、特に意識してメールを待っているわけではない。
それでもちゃんと読むことはできるし、しかもメールが届けば携帯が鳴って知らせてくれる。
恥ずかしいほど些細なことだが、少し自由を得られた気がした。
そして、パソコンをしばらく離れてみると、特に何もしていなかったのだということに気づく。
何故そこまで執着していたのか全く見当も付かないほどだ。
勤めていた頃はいたずらに離席するわけにもいかなかったので多少の正当性もあった。
しかし自由業である今、そんな必要はないのだ。
やることさえきちんとやればよいのであって、規律も勤勉さも要求される謂われはない。
気分ごともう一回り自由になろう。
特にやりたいことがあるわけではないが、さしあたって散歩を楽しんでいる。
二万翁
昔からある庶民の味。小豆1個60円、カスタード1個80円也。
いまどきの高級型と違い大量生産ではあるが、焼きたてを食べられれば問題なし。
手際よく何匹分も生地を流し込んではあんを載せていく風景も見物だ。
しっぽ部分が大きく、かりっとした食感が楽しめる。
あんこたっぷり、というわけではない。
むしろ皮の香ばしさと焼き上がりの香りで頂きたい。
甘さ控えめなので、食べ歩き向き。
#あんこの比重が高いほど口の中をやけどする危険性が高い
かねます食品 たいやき白玉あずきあん(3ヶ入り)
鯛焼き屋の商品ではなく、家庭向け冷凍食品。
1袋3ヶ入りがジャスコで198円だった。
白玉は不要だったのだが、他に選択肢がなかったので購入。
結果は惨敗であった。
凹凸のなさがこの写真でお解りいただけるだろうか。
どこもぱりっとしていない。
そして良くも悪くも白玉の自己主張が強い。
あんより白玉の比率が高く、鯛焼きに小豆の味が届いていなかった。
これじゃない。以上。
文字通り新鮮
ついったーでコストコの話をしていたら、意外なほどの急展開で連れて行ってもらえることになった。
しかも連れて行ってくれるという人は初対面。
ご家族総出のコストコツアーに向かう途中で私を拾ってくれることになったのだ。
ついったー上では割と親しく、そのうち遊びましょうという話はしていたのだが、実現して正直びっくり。
しかし驚きはそこにとどまらなかった。
ご夫婦+お子さんお2人(小学生と乳児)+私+ダンナの6人だったのだが、
息子さん(小学生)がダンナにべた慣れ。
人間様に「べた慣れ」という表現は甚だ失礼なのだろうが、他に適切な言葉が浮かばない。
ふと見たら手をつないでいる、少ししてまた見たら抱きついている?!
ダンナが子供になつかれやすい人なのは知っていたつもりだったが、まさかここまでとは。
じゃれつきようがエスカレートしてきたので親御さんが声をかけても反応なし。
文字通り店内を引きずり回しながら、夢中でダンナと(で?)遊んでいた。
食事の時もまとわりついて離れようとしない。
「すいませ~ん、ご主人にあんまりにもなついちゃってるみたいで」
「まあ大丈夫だと思いますけど」
「人見知りするところもある子なんですけどねぇ」
と距離を置いてしまう始末。
本当の無邪気さには破壊力がある、と喫驚した。
決して呆れているとか困ったとかいうわけではなく、ただただ感心したのだが。
発達途上の言語感覚を観察するのも色々と新鮮で面白い。
語彙が足りないのかメタ言語そのもので発話していたり、てにをはが合っていなかったり。
興味深い発見が色々あるものだとは思ったが、これが日常となるとそうも言っていられまい。
「全力で相手してやれるから嬉しかったんだろうねぇ」と一仕事を終えた顔でダンナが述懐していた。
本来、私と奥様が知り合いで、買い物がてらおしゃべりでもできればという趣旨だったのだが。
意外にも中国茶の話でご主人と盛り上がってみたり、繰り出される生活の知恵の数々に目を丸くしてみたり。
いつもとは違う刺激と学びに満ちた半日だった。
なにわ堂(野田店)
店構えはこんな感じ。小さなお店をご主人が一人で回しているのかな?
自称「高級たいやき専門店」。
「高級 北海道あずき」を注文してみた。130円也。
ホットケースに入っていたので、購入時に新鮮さは感じなかった。
しかし意外にも皮がカリッとしていて十分いける。
高級を名乗るだけあってか、皮が薄めであんこたっぷり。
ただ、故になのか分からないが些か甘すぎるように感じた。
食べながら歩くのではなく、きちんと渋いお茶で頂くべき物件だったか。
記憶の在処
気が向いたので、カシオトーンで少し遊んでいた。
電子ピアノにもシンセサイザーにもなれない、もっと手前の鍵盤楽器である。
ショパンの『ノクターン作品9の2』と『雨だれ』を弾いてみたのだが、やはり音楽にならなかった。
どちらも高校の頃は何とか弾けた曲目なのだが、今や全くのうろ覚え。
楽譜をめくれば見覚えがあるし、曲の音そのものは記憶にあるのに、弾けない。
61鍵しかないので上下いくつかの音はそもそも出せないが、それどころではなかった。
長音ペダルもないので、自分をごまかしながら弾くこともできない。
面白いことに、ついて行けないのは右手のほうだった。
しかも面倒な7連符やトリルなどではなく、単調な連打がうまくできない。
左手は存外まともにアルペジオを奏でることができた。
左右の手が別々に動いて一つの曲を演奏する、というのが面白いと感じるようになったのはごく最近。
実家に残しておいてくれたピアノが処分されてから何年になるだろう。
あったところで迎え入れる環境に住んでいないし、その目処も立たないので仕方ないのだが。
追想はともかく、弾けなくなっている原因は純粋な運動能力の問題ではないようだ。
まがりなりにも動けている左手がそう言っている気がする。
目的の旋律を奏でるためにどう動かすべきかの記憶が途切れているから、ではなかろうか。
恐らく記憶があるとしても文書情報などではなく感覚的なものなのだが。
「手が覚えている」といった類の何かだ。
その感覚を取り戻せたら何か面白いことがありそうな気がする。
ノマドごっこ
先日、日本通信のDoccica U300なるものを購入した。
FOMA網で上下とも300kbpsのデータ通信が可能という代物であるが、何故かホットスポット(のスタンダードエリアのみ)の使用権もついている。
試す機会もないかと思っていたのだが、大阪市立中央図書館が該当エリアであることが判明。
この図書館は徒歩圏ということもあり、何度か足を運んだことがある。
パソコンを担いで歩くには遠いかとも思ったのだが、思い切って試してみることにした。
ホットスポットが使えるのは、二階の談話室。
室内どこでも使えそうではあるが、今回は「持ち込みパソコン専用席」を借りてみることにした。
まず二階の相談カウンターに専用席利用の旨を伝えて整理券をもらう。
整理券発行時刻から2時間までは利用できるが、以降は利用希望者が出たら順次交代とのこと。
言われた時は少しひやっとしたが、着席してみて安堵。隣の人の整理券が午前中のものだった。
ホットスポットそのものの契約者がどう利用するのかは知らないが、接続は簡単。
bアクセスなるソフトを立ち上げて「3G・WiFi」ボタンをクリックするだけである。
待つこと数秒、よくわからない英語のページが立ち上がったが問題なく接続完了。
Doccica U300そのものと違い、タブの数を気にせず快適に利用できた。
#前者の場合、実質的に4-5枚しか開けない
談話室内では全てのテーブルにコンセントが付いているので、専用席以外でパソコンを使っている人も見受けられた。
専用席と他のテーブルとの違いは、むしろ机の仕様である。
壁に向かって設けられた専用席はちょっとした事務机そのもので、読書灯がついていた。
私には少し眩しかったので読書灯は使わなかったものの、想像以上に快適。
改めて理由を考えてみると、意外にもと言うかお恥ずかしながらと言うべきか、机の奥行きだった。
自宅での作業環境は標準サイズのメタルラックを利用しているので、奥行きは45cmである。
専用席の奥行きは推定60cm以上あった。両肘をまっすぐ置ける余裕がある。
それだけのことで疲れがだいぶ違うのだと気づき、些か驚いた。
これを教訓に自分の作業場所も改良できないか検討してみたいと思う。
所要時間を考えると日常的に通いたいほどではないのだが、状況に応じ活用したい。
JISハンドブックなどの所蔵も豊富なので、調べ物には不自由しないという当然の強みが頼もしいのだ。
また、本体だけで2kg超のパソコンを担いで往復するのも意外と苦にならなかった。
持ってみて「高校の時に持ち歩いていた鞄より軽い」という感覚に軽く衝撃を覚える。
肩掛けもできる鞄なのだが、手持ちでも思っていたより楽だった。
考えてみれば秋口から5kg減量しているので、それでも歩けた距離は歩けて当然のような。
素直に読んだらいかんのか
某宗教系出版社のベストセラーとやらを読んだ。
書名などを出すと余計なものを惹起するようなのでここでは伏せておく。
と言うのも、家族と云いネットでの知人と云い反応が散々だったのだ。
何もそういう背景を意識せずさらっと読んで、なかなかよくできた本だと感心していたのに。
どうも素直にそう云うと微妙な表情をされるのが納得しがたい。
ねえ皆さん、色眼鏡をかけるほうが正しいの?
誰がどういう目的でいつ書いた本であれ、読み手の身になるものがあってもいいと思うのだが。
確かにそれっぽい内容がなきにしもあらずだったので、心配されてもしかたないかもしれない。
気分が参っているとき、滅入っているときに読んだら危なかったのかもしれないが。
しかし、少なくとも今の私は、そういうときにそういう本を手に取らない。
それでもなお、「危ない人」が書いた本は危ないのだろうか。
まして、読む前の私が「危ない人」ではなかったという確証が彼らにはあったのか?
いちいちこんなことで引っかかる天の邪鬼なので、心配はご無用と云いたいところなのだが。