中国の影響力が無視できない、という話は先日のセミナーでも出た。
その証左が些か意外なところから出てきたので更に納得した次第。
英語の実務翻訳でも中国の地名やら固有表現やらが散見されるらしい。
漢字を使わず表記されたそれらを「和訳」するのはさぞ骨であろう。
一助になれるかは分からないが、簡単なヒントをまとめてみたい。
鳴かせてみようWindows7
文句を垂れ流し(綴り)つつも、通訳講座の宿題は毎日やっている。
30組ほどの単語と長文2つを次回までに覚えるというものだ。
中国語を口にする機会が普段ないため、発音を特に意識している。
とは言え音声教材は配布されていないので、PCに読み上げさせることにした。
基準の基準?
職務経歴書の肥やしにもならない昔、ISO9001/9002の社内監査に関わっていた。
初めての仕事らしい仕事だったのでぼんやりとは覚えている。
図書館で実務書を見かけたのでふと手に取ってみた。
日本「品質」
商品の質を示す中国語は「質量」だと習った。
中国語にも「品質」と綴る単語はあるのだが、意味は違う。
物品ではなく人品の質なのだ。
(1) 人の資質,品性:
*政治~|政治的資質.
(2) 商品の質,品質:
*提高~|質を高める.
出典:デイリーコンサイス中日辞典 (三省堂)
ある国際化の現場にて
近所の回転寿司屋に行ったところ、注文システムが刷新されていた。
商品選択パネルの表示が多言語表示になっていたのだ。
大人気ないとは自覚しつつも、ついつい試して遊んでしまう(※ちゃんと使っている)。
中国語の品書きは基本的に日本語の品名を簡体字に置き換えたものだった。
翻訳らしい翻訳がされているかというと、だいぶ厳しい状況。
「海老」が「鲜虾」、「生海老」が「生虾」になっている。
逆翻訳すると、前者は生の海老、後者は生煮えの海老。
しかし「海老」にぎりの海老は実は生ではない。
この回転寿司屋に限らず、単に「海老」と言うとボイルされたものを指すはずだ。
つまり、結果として、火の通り具合がむしろ逆転している。
些細な問題なのかゆゆしき事態なのか、私には分からないが。
英語版では綴りの間違いもちらほら見られた。
また、誤訳とは断定しきれないのだが「葱」が一括置換したように「green onion」。
これも実物は白葱だからむしろ「leek」だろうと思うのだが、そういうものだろうか。
なお、いずれの言語でも訳出されず日本語のままの商品もあった。
利用客は商品写真と同時に文字を見るので、実害はないのかもしれない。
(海老の件はそれでも心許ないが)
それにしても思わされたのが、メニュー翻訳の難しさ。
文字列だけ渡されたら、「海老」は「鲜虾」、「葱」は「green onion」と訳しかねない。
果たしてこの取り違えを翻訳者個人が防ぐことはできるのだろうか。
せめて商品写真を請求するぐらいはしておかないと、と改めて思った。
恐らく他の機会で目にする翻訳メニューにも似たような現象が起きているのだろう。
利用者と翻訳者、両方の立場に立ってみると気分は複雑だ。
生きているのか微妙な言葉
自宅の共有玄関に「お住みの方の迷惑になります」とかいう張り紙があった。
反射的に「お住み」ではなく「お住まい」のほうが自然かと感じたのだが、由来が分からない。
そもそも「住む」と「住まう」の違いを意識したことがなかった。
試しに「住まう」を辞書で引いてみると
大辞林 第二版 (三省堂)では
すまう すまふ 【住まう】
〔「住む」に継続の助動詞「ふ」が付いたものから〕
(1)住み続ける。暮らし続ける。
(2)(芝居の舞台で、登場人物が)すわりこむ。座を占める。
とある。
住み続けずに住むという状態がにわかに想像しがたいが、語の成り立ちには興味を覚えた。
似た構造、由来の語句には他に何があるだろう?
動詞に「う(ふ)」が付くことで継続を示す別の動詞になったもの。
とっさに思いついたのは「うつる-うつろう」だった。
上記辞書で確かめたところ、正解。
当たっていたのはいいが、意外なほどに他の例が思いつかない。
しばらく考えて見つけた次の正解は「よぶ-よばう」
どうも最初の「住まう」を含め、書き言葉にしか出てこない気がする。
日常会話で発する機会はなさそうな語彙ながら、何となくこういうものは忘れたくない。
分からない人(と機械)には分からない
Google翻訳に「城北図書館」と入力して日本語→英語の翻訳を試みると、「Seongbuk Library」と表示された。
日本語で「城北」を読むと「じょうほく」か、せいぜい「しろきた」になるはずだ。
私は韓国語の知識を持っていないが、「Seongbuk」は韓国語読みのアルファベット表記にしか見えない。
Google翻訳は訳例の蓄積から統計的に答えを出しているそうだが、誰がそんな対訳を放り込んだのだろうか。
日本語の文中で韓国の地名をわざわざ漢字表記した例があったということだろうか。
それにしても「城北」やら「城南」やらといった地名は日本中にあるだろうに、上記例の方が多かったのかが不思議だ。
日韓どちらの言語も分からない人、まして機械には「じょうほく」か「Seongbuk」かの区別がつかないのも道理だが。
固有名詞のローマ字表記を目的にGoogle翻訳を使ってはならないということは分かった。
文体診断
ついったーで誰かが紹介していた「文体診断ロゴーン」というサービスが面白い。
ランダムに「診断結果」を表示するのではなく、まじめに例文を解析してくれるのだ。
入力枠に先日の日記を貼り付けて「診断する」を押したところ、下記の結果が出た。
・64人の作家や政治家の例文で、私の日記と最も近かったのが有島武郎(作品は『或る女』)。
・最も(唯一?)好きな吉川英治と一致率ワースト2なのが切ない。
・文章評価は「一文がやや長い」「文章が柔かい」「とても表現力豊か」「とても個性的」
文の長さで評価が低かった。反省に値する。
「文章が柔らかい」は評価Eなのだが、必ずしも低いという意味には捉えていない。
用途に応じて硬軟を使い分けるのが理想ではなかろうか。
詳細結果は以下のとおり。
一致指数ベスト3
名前 | 一致指数 | |
---|---|---|
1 | 有島武郎 | 64.3 |
2 | 三木清 | 64.3 |
3 | 坂口安吾 | 63.7 |
一致指数ワースト3
名前 | 一致指数 | |
---|---|---|
1 | 阿川弘之 | 30.8 |
2 | 吉川英治 | 32.9 |
3 | 石川啄木 | 33.1 |
文章評価
評価項目 | 評価とコメント | ||
---|---|---|---|
1 | 文章の読みやすさ | D | 一文がやや長い |
2 | 文章の硬さ | E | 文章が柔かい |
3 | 文章の表現力 | A | とても表現力豊か |
4 | 文章の個性 | A | とても個性的 |
得点詳細
平均 文長 | 平均 句読点間隔 | 特殊語 出現率 | 名詞 出現率 | 動詞 出現率 | 助詞 出現率 | 助動詞 出現率 | ひらがな 出現率 | カタカナ 出現率 | 異なり 形態素比率 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
粗点 | 35.4 | 22.13 | 6.78 | 21.19 | 9.32 | 33.9 | 20.34 | 62.71 | 0.85 | 51.69 |
偏差値 | 44 | 62 | 32 | 31 | 47 | 74 | 91 | 69 | 50 | 101 |
ビジネス日本語
手元には「ビジネス日本語」の教本が二冊ある。一冊は大陸、一冊は台湾のものだ。
中国語圏の人々が日本語のいわゆるビジネス文書をどう解釈しているのかもさることながら、
日本語ネイティブの私ですら知らないような日本語の例文が色々あって面白い。
・未だ拝顔いたしておりませんが
・ご尊名はかねがね拝承しております
・ご海容ください
・ご勉強願います
・以上ご通知申上候
・概算でよろしゅうございます
・その非を天下に訴えたいと存じます
……意味は分かるが、どれも死語ではなかろうか。最後の例文は、そもそもそんな発言があるかという問題。
一発返還できるATOK偉い。
そのくせ肝心な所が間違っていたりする。
「まことに心苦しいお願いではございませんが」←むしろ厚顔。
「資金操作が繁忙をきわめております」←ワルイコトしてそう。
「発送済みのことと存じますが。」←「が」で文を終わるのは口語(電話)だけでは。
細かいアラを数え上げるときりがない。
振り返ると自分の中国語がどれだけ恥ずかしいのか想像に堪えないのでお互い様だろう。
確実に云えることは、例文の対を対訳として鵜呑みにしてはいけない。
教科書なのにな。
喋れないのは喋らないから
国際電話がかかってきた。
用件は想像が付いていたのでまあ会話にはなったかと思うのだが、やはり会話は苦手だ。
ことに電話となると「雑音」やら「声が遠い」やら、言語能力と別のところで神経を使う。
あるいは電話も慣れれば平気になる代物かもしれない。
そこでふと思った。いわゆる普通の日本人が「英語を話せない」理由は日常生活にないからでは?
会話する(聞き取る、発話する、話の流れを考えるを含め)相手がいない日常で、喋れるようになるか?
そう言えば2ちゃんねるでは、日本語すら緊張やら恐怖心やらで話せないという会話がなされている。
そう、言語的に会話が成り立たないのではなく、声に出す発話ができない人々もいるということだ。
見た目はいわゆる健常者でも、だ。
出所が出所だけに話半分と思いたいところだが、あまり長いこと声を出していないと声は出しにくくなるのだという。
曲がりなりにも文の読み書きならできる日本語であれ、声が出せなければ話せない。
まして読み書きの機会すら日常的にないような外国語を話せる人などむしろ珍しいのではないか。
話せる人は当該言語の使い手やら視聴覚教材やらと主体的に接触している人に限られるような気がする。
つまり、受動的な性格の人は外国語会話などおぼつかない。
昔は「言葉なんて留学すれば厭でもできるようになる」と言われていたが、今やたいていの国では生活が便利になりすぎて、そうでもなくなっているのではとすら思う。
そうなると、会話力が欲しいと思ったら、当該言語の使い手と交遊するぐらいしか現実的な手はなさそうに見えてきた。
……ここで友達を作るのが大の苦手という性格が災難する。