変わらなくていいもの

冷蔵庫から異音がするので買い換えることになった。
今はなきサンヨー製なので諦めもつく。
実は引っ越し直前にオーブンレンジも買い換えている。
その時の教訓で、冷蔵庫は実物を見て検討することに。
(カタログ情報で使い勝手は分からない)

家電量販店で各社製品を比較して回った。
自動製氷、除菌、保湿、ネット接続。
我が家の冷蔵庫が多機能である必要はない。
むしろ自動製氷などは夜うるさいので余計だ。
「つながる」機能も使い道が分からない。
Webカメラ搭載で内容物が監視できるなら別だが。
そう考えていくと現状維持に帰結する。
設置場所の都合で容量も変えようがない。
迷う特性は扉の開き方向ぐらいのものだった。
それとても、両開きに2万の差額を出す気にはならない。
他にも付加価値は盛り込まれていたが魅力ではなかった。

結局AQUAの一番シンプルな機種を購入。
付加価値はあればいいというものではないなと思った。

母がんばった

タブレットが外でつながらない、とのLINEが来た。
トークが送信できているのだからWi-Fi環境でならば通信できるはず。
電源を入れ直しても復帰しない由。

SIMカードの接触不良かと思ったので抜き差しを試してもらった。
この作業が言うは易く行うは難い。
カードトレイが華奢、SIMカードが小さい、トレイ端部が欠けている。
それでもどうにか抜き取る、拭く、入れ直す作業までしてくれた。
が、「緊急通報のみ」が出るという。

不安になって母が電話してきた。
兄が何やら操作をして去るまでは普通に使えていた由。
母自身が普段は使わないWi-FiもONのままだという。

検索のキーワードが揃ったので方々を当たってみた。
まさかのシステム更新らしい。
※発売から2年も経っているAndroidタブレットには珍しい
APN情報がリセットされたのでMVNOのSIMは自動で認識できないと。
mineoのネットワーク設定手順リンクを送ってみた。
割と具体的に書いてあるので或いはと期待しつつ。

で、めでたく解決。
事態が見えないので冷や冷やしたものの、修理沙汰にならず安心した。

※兄はiPhone使いだが、何も悪くない。
メーカー公式の更新通知が来たら適用するのも当然。
問題はそれでAPN設定が飛ぶということだ。
そんな知識はMVNO使いにしか必要ない。

機械に使われていまいか

このところ某社の訳文の「チェック」が煩わしくてならない。
無論、見直しを放棄しているというわけではない。
取引先指定のツールで機械的に「チェック」した結果がひどいのだ。
1.「訳文が編集されていない」
2.「異なる原文に同一の訳文が当てられている」
3.「タグ順が違う」
どれも人間ならば指摘しない「エラー」である。
このうち1.は中国語と日本語だから多発するものだ。
例えば「2018年8月9日」と原文にあったら訳文も同じになる。
最もひどい例では項目番号の「①」しかないのに「エラー」だ。
他にも見た目に変化のない対訳は存在しうる。
2.と3.は取り扱い言語が異なってもよく出てくるだろう。
「エラー」が出れば真面目に確認はするが、まず誤訳ではない。
原文の句読点に全角と半角が混ざっている場合に頻発する。
訳文では句読点を全角に統一するため2.の「エラー」が出る。
そして3.については数字の位置を動かすと出る。
アラビア数字は半角、漢数字は全角のせいだ。

「おかしなエラーは無視してください」と担当者は言う。
言うのは実に簡単だ。
その処理が何千回もあるのに。
人間だったら指摘するはずのない「エラー」処理が。
しかしその「チェック」を経ずに納品はできない。
訳しようがない箇所は対象外に指定してくれと頼んでも返事がない。

機械ほども信用してくれないんでしょうか。

日本の技術は世界一、なの?

持論のようなものはついったーに出さないことにしている。
どうもここのところ偏った言論空間に見えて仕方がない。
中でも目に付くのが「ものづくり」の素晴らしさ云々。
テレビが焚き付け、週刊誌が拾い、ネットに拡散している模様。
確かに紹介されている個々の事例はすごい。素晴らしい。
しかし褒めそやされているものは得てして個人技だ。
テクニックであってテクノロジーではない。
それでは産業としての強みにはなっていないはずだ。

「うちが欲しいのはテクノロジスト、テクニシャンじゃねえの」
新卒で入った会社の先輩の言葉を思い出す。
その先輩は、私どころでなく英語を苦手にしていた。
それでも「技術者」と言わずカタカナ表現を使った意義は深い。
「技術者」ではあいまいだから、である。
メーカーで言う「技術」は専ら「テクノロジー」だ。
一定水準の製品を安定して生産するための「技術」。
体系化、手順化され、むしろ個人技能への依存度は低い。
聞いた当時は非人間的に響いて抵抗感を覚えていた。
しかし考えてみると会社員は代えが利いてなんぼのもの。
経営の観点からすると当然なのだった。

……なんてことが最早つぶやけない。

場と信仰と運と

ここ半年で有名な寺社をいくつも拝観してきた。
そもそもが不信心なのだが、得られたものがひとつある。
「あれ」は単なる不運だったのだ。

最初の「被害」を認識してから30年では済まない。
しかも断続的に10年ほど、いじめられっ放しだった。
そして「加害者」は複数だった。
今なおどの件の「主犯格」の氏名も諳んじられる。
しかし、やっと、彼らへの処罰感情を手放せた。
自分に残る傷跡には関わらず。

恐らく彼らに加害の記憶はない。
それどころか私が存在したという記憶もないだろう。
単なる子供の気まぐれが思い出にはなるまい。
たまたま出会った蟻を踏み潰したようなものだ。
それがたまたま蟻でなく私だっただけだ。
黒くて些か異質なので目に付いた、ただそれだけ。
その攻撃の動機に恨みも怒りもなかっただろう。
まして「被害者」が法的な訴えも自殺もしなかった。
よって何ら「罪」の「証拠」もない。

思い出しても不快なだけ、忘れろと言うのは易い。
しかし忘れたものは意図せず思い出すこともある。
だから、自ら手放すことに価値がある。
自ら。

恵みも災害ももたらす自然を祀った神社。
救いを求める感情を束ね、寄る辺を作った仏閣。
自分ではどうしようもないことがある。
信仰はそのやるせなさの受け皿なのかもしれない。

社格の高い神社や人里離れた仏閣は空気が違う。
空気が違うからそこに築かれたのだろう。
敬意を形にする場にふさわしい空気。
敢えて記憶をとどめておくに堪える空気。
そこに昔の人々の思いを形にしたものがある。
こうした場はもう新たには作れないのではと思う。
すがる気はないが、それでも救いは感じた。