テレビ番組の題名に「どや顔」が出たと思ったら、今度は雑誌の見出しに「どや服」だとか。
この用法(どや+名刺)を肯定的に使う人達の気が知れない。
響きが下品だと感じるのは私だけなのだろうか。
「どや顔」は、テレビ朝日の定義?によると「古くはしたり顔、得意顔」だそうだが、より強く悪意を感じる。
悪意というより、その顔をしている人を冷たく見下す第三者の視線と言うべきか。
愛着のある(ことに目下の)誰かを形容するならまだしも、いたく失礼な気がしてならない。

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自分の立ち位置

セルフブランディングなる言葉が最近よく目に入る。
自分で自分に焼き印を押すとは物騒な。なんて揚げ足取りはさておき。
私は「自分が身を置く社会の中でどのような立ち位置にあるかの認識」と解釈している。
「こうなりたい」「かくあるべき」という目標に合わせて設定してしまうのもあり。
「こう見えるのかな」「こう思われていそうだ」という外からの情報で推測するのもあり。
(推測には必ず自分の意思が入るのでよしとする)
そういう認識を持っておくことが、交流する相手に何らかの信頼感を与えるのではなかろうか。


さて、そこで自身はどう認識しているのかと言うと。実はよく分かっていない。
勤めていた頃の考課面談で聞いた評価、最近ついったーで頂く評価、いずれも実は香ばしい。
よくお世話になっている翻訳会社の方からも、ありがたい言葉を頂いたことがある。
しかし、甘言ではないかと疑ってしまって素直に信じられない自分がいる。
皆さん大人なので、他人をなじるようなことは言葉にしないのだろうが。
悲観主義者なので負の言葉を待ってしまっている面もあるのだろうとは自覚している。
たとえ甘言であったにせよ、それすら言うに値しない相手と認識されるよりはましなはずだ。
例外は完璧な裸の王様である場合だが、それはそれでひとつの幸せなので不問に付す。


現実での評価は「孤独を好む職人」、ネットでの評価は「人の輪の中心」とほぼ正反対だ。
複数人からの声なので、どちらも嘘ではないと思う。
そして、二つの「嘘ではないと思う」を「本当だ」に昇華させる過程が、私の宿題。
安易に回答をひねりだして提出すれば許されるものではない、考える過程そのものが課題だ。
暫定結論として、学生の頃までの評価はほぼ関係ない。
良くも悪くもそこをきちんと認識しないと、社会人としてふるまっていることにならないと思う。

持ち家ってどれのことですか

ついったーでS社長から意外な質問をされた。
上海の持ち家比率を知らないか、とのことである。
全く知らなかったので、しばらく調べてみたところやや意外な結果が。
中国消費者信頼調査(CCSS)なるところのデータ(図1グラフ)を見ると、2008年第2四半期現在で82%もある。
graph.jpg
(グラフ左端にある「持ち家0軒」の18%を全体から差し引いて求めた)
聞き取り調査の母集団も母数も公表されていないのが不気味ではあるが、まあ新華社系列なので不動産会社そのものの主張よりは正しいのだろう。


それにしても82%は高すぎると思っていたところ、こんな補足資料があった。
2006年7月5日とやや古いが『瞭望東方週刊』に「世界一高い持ち家率の真相」という記事が。
それによると、「国際的に言われる持ち家比率とは、世帯数単位で一般に住居を所有する比率を求めたものである。一方「中国標準」では、個人の所有する住宅面積と、住宅用建築物面積との比率によって計算されており、面積比であって世帯数の比ではない」とのこと。
同じ土俵に立っていないというか、土俵にレオタードで来られても困ると言うべきか。


同記事でこんな表現もあった。
標準的住宅面積を100平米と仮定して計算すると、「世帯数では5%の富裕層が世帯あたり3軒、15%の中流層が2軒、40%の標準層が1軒を所有し、残る40%は住宅を所有していない」となり実情は60%ぐらいになるとのこと。


なるほど、道理で朝刊(証券会社が経済紙の記事を抜粋したもの)翻訳に結構な頻度でセカンドハウスローンやらサードハウスローンやらが出てくるわけだ。
恐らく、先のグラフでわずか18%しかない「持たざるもの」には世帯あたり100平米も貸し出されていまい。
世帯数、人口で公表すると不利ということで伏せているのではと邪推してしまう。

日本向け個人輸入

ヤフー・ジャパン(Yahoo! JAPAN)は1日、中国最大の消費者向けEコマースサイト「陶宝(タオバオ)」と提携して「Yahoo!チャイナモール」を開設した。(サーチナのニュースより)
この陶宝網という存在は日本で言う楽天市場のようなもので、たくさんの個人や企業が出店している。
Yahoo!チャイナモール」は陶宝網との連絡を担い、日本語で中国の商品が個人輸入できるというサービスだ。
ところが、上記のニュースを見てのとおり中の日本語がかなり怪しい。
決済機能に関わるところだけはしっかり日本語で作成されているのだが、商品内容は機械翻訳なのだ。
「思う。霓のはかま/チャイナドレス/白い純棉の黒い絹織物は23#を飾って/類をカスタマイズして」
機械翻訳であることが明示されているだけ良心的ではあるが。
商品分類が分かりやすいとはいえ、個別がこれで大丈夫なのだろうか。
むしろ、この字面が普通の日本人に受け入れられてしまうと私は商売あがったりだ。
「意味が分かるならいいや」を体現すると、極論こうなってしまう。
流石にここまですごい「日本語」はそうそう歓迎されないだろうと楽観しているが。
尤も、値段が十分に安いと思う人が多ければ、サービス自体が支持される可能性は十分にある。
※国際送料抜きの値段で中国の倍額が安いのかどうか。
しかも一部の商品カテゴリ/商品は掲載されていない。
今の時点で断言できるのは、私は陶宝網で十分、ということだ。

この時代の読む力

世間では「リテラシー」とか「情報リテラシー」とか呼ばれる能力がある。
横文字が嫌いなので言い換え表現を見つけたいところだが、仮に「読む力」としてみよう。
とほく昭和のおほん時には、「読む力」は「書いてあることを誤解なく読み取る力」だった気がする。
それが誰でもこうして発言を公表できるこのご時世でも同じように通用するだろうか?
誰もが好きに文を書き殴り、そのまま晒している状態では、目に見える文意が事実とは限らない。
Wikipediaの記述を丸呑みして論文に引用することの是非はよく論じられているが、他の場合でも全く同じことが起きている。
新聞だって誤報だったり意図的な編集による偏りがついていたりする。
それ自体は何紙分か並べてみれば何となく理解することはできるだろうが、一般にそんな暇があるだろうか?

人の発言が本当、事実、真実であるとは限らない。

ある意味では常識かもしれないが、それは本当なのだろうか。
情報の整理、取捨選択、時には実用上の妥協点を探る作業までができて「読む」ことができたことになる。
家庭、学校、(身の回りの)社会のいずれでも教わる機会はなかった気がするのだが、求められている気もする。
情報を「読む力」は実は、その情報そのものを「読む力」ではないのだろうと思えてならない。
一昔前に流行った「空気」、もう少し伝統的に言うところの「行間」を「読む」必要性を感じる。
何ともせちがらいことだ。

捨て佛

日本では捨てワニ、捨てトカゲが新聞沙汰になっている今日この頃。
マカオのコロアン島では何と捨て佛が社会現象に?
IMGP9108.JPG
この張り紙を要約すると
・そこらへんに捨てると祟られまっせ
街のことを考えたら佛様は捨てないよね!
・供養してからきれいな紙に包んで海に流してね
まぁこの辺の仏像は木製なので生分解性はあるんだろうけど、
環境美化を訴えている割に外の自然は……功徳でどうにかなるのかな?

すわ失業の危機?!

今週は翻訳業務にいそしんでいたのだが、気になるニュースが入った。
Google人力翻訳センターと、その後の狙いなる刺激的な見出し。
あのGoogleが「Google Translation Center」なるサービスを立ち上げるという。
リンク先では「最初に機械翻訳でざっと訳しておき、翻訳者が最初から訳すのではなくミスを捜していくということになるので、作業がかなり容易になることだろう。」とあるが、そこまでは真に受ける気もない。
少なくとも向こう数年、機械翻訳のレベルは下訳に足りるほどでもないからだ。

それより恐ろしいと思っているのは、「Google Translation Center」に翻訳メモリ機能があるということだ。
Google の言う翻訳メモリとやらが我々の慣れ親しんできたTRADOSなどに対抗しうるものだとすると、
・原文と訳文の対(=対訳)がネット上で曝される
・プロが利用すれば当然、プロの仕事が公開される
・規格やマニュアルなどの定型文書が一部書き換えになっても素人が更新管理しうる
これが普及してしまうと技術翻訳で食べることは不可能に近くなってくる。
報酬の安い中華圏の翻訳者とは競合してもなんとかやってきたが、
無料公開となってしまうと分が悪いどころではない。
クライアント(訳したい原文を持っている人)が無料の内容で満足してしまったら終了である。競合の余地もない。

ただでさえ翻訳メモリを使うように指定された仕事は労力の割に報酬が低い。
競合(翻訳メモリの使い手)が少ないのがほぼ唯一の利点と言える。
現状では翻訳メモリというソフトがまだまだ普及していないためだが、
・難しい(操作だけでなく、概念がややこしい)
・高い(新規に買うと10万はかかる)
という敷居の高さに手を拱いていた翻訳者がどれだけいて、今後どれだけGoogleのそれに食指を動かすのだろう。
そして、訳文を公開することのリスクと翻訳の進めやすさを天秤にかけてどちらが強いのだろう。
「Google Translation Center」にも仕事の斡旋機能はあるようだし、
翻訳業、翻訳業界が滅びることには直接つながらないだろうとは思う。
しかし個人翻訳者は淘汰されていく可能性が濃厚になってきた。
決して自分の仕事に自信がないわけではないが、やはり一抹の不安が拭えない。

四川大地震被災者にオンライン献花

19日から21日は中国全土で「哀悼の日」だと発表されている。
日本語のニュースでも読めるので一応そうなのかと認識はしていたが。
先月からスカパーでチャンネル中国を見ようか迷っており
配信元の本体東方衛視サイトでも覗こうと思ったところ。
目的のページが開けずドメインすら違うページ(運営もと会社のだが)に自動転送された。
一目瞭然ではあるが、黒い背景に白い菊が一輪ぽつんと浮かんでいる。
四川大地震被災者を悼むための特設ページだった。
項目は「献花」と「留言(伝言)」の二種類で、それぞれに参加人数が表示されている。
献花は右横の黄色い文字列をクリックするだけという手軽さもあってか、
参加者が既に217789人にもなっていた。
「留言(伝言)」のリンク先はいわゆる普通の掲示板で、
不特定多数の被災者に宛てた励ましや、親族への追悼の言葉が並ぶ。
書き込むべき適切な言葉が思い浮かばなかったので、とりあえず献花だけしておいた。
こうした「気持ちを伝える」取り組みというのもありだと思う。