とても懐かしい人から電話をいただいた。
非正規社員していたころの上司?だった大学の先生。
向こうの近況を伺うことはできなかったが、
私に仕事をふってくるぐらいなので相変わらずご多忙なのだろうとは思う。
因みに引き合いをいただいたのは、データ処理の仕事。
文系か理系かと言われれば文系の作業だが、翻訳とはほぼ無関係。
二足の草鞋だった頃が懐かしい。
あり得ない商談
Proz.comから流れてきた求人メール。
中国語から各言語への翻訳者を募集しているのだが、
・有資格者限定。
中日翻訳の資格なんてものは少なくとも私の知る限り存在しない。
或いは中国にはあるのかもしれないが。
もしや実績でもどうにかなるか、と思って当該案件の詳細情報を見てみると
・長さ 20万語
一人で翻訳するには少なくとも一ヶ月かかるが、まああり得ない量ではない。
が。
・報酬 675.000 人民元/単語 (81.55 米ドル)
……どう見てもあり得ない。
単語あたり81.55ドルって、20万かけたら1600万ドル?!
そんなにもらったら私、もう廃業しても悔いはないわ(笑)
不覚
昨日までの仕事が手離れし、一時を過ぎても引き合いがないので
どうせ何もしないならばと思い岩盤浴に行っていた。
所要時間二時間のうち浴床にいるのは正味一時間もないのだが、
あがってふと携帯を見たら着信通知。
急いで折り返したものの「ちょうど今その手配を終わったところです」とのこと。
着信から折り返しまでは三十分だったのだが、間が悪かった。
自業自得と言えばそれまでだが……
傍観する仕事
最近、翻訳まわりの副業が増えた。
TRADOSのWinAlign機能で対訳をまとめる作業が発注してもらえるようになったのだ。
ある文書の英語版と日本語版を渡され、「整合ファイル」なるものを作って納品する仕事なので
自分が翻訳をすることは全く期待されていない。
英語版のある段落とその訳文である日本語版の該当段落を文字通り紐付けするだけなのだが、
段落の区切りが英日で違っていたりするので英語力不要とはいかない。
場合によっては前後の段落をひとつに併合したり、逆に文を読点で段落に分けてしまったりする。
うかうかしていると原文にはある繰り返しが訳文にはないといった構造に引っかかる。
したがって校正するぐらいの神経を使って対訳に目を通していくのだが、
他人様の仕事を傍観できる機会はそうそうないので意外と面白い。
直訳過ぎるだろうと思ったり、予想外の対応表現が見事にはまっていて感心したり。
本業の中文和訳には出てきそうにない表現もあったりして、暗記すれば役に立つというものではないが
日頃の翻訳作業を反省するなかなかよい機会になってくれたと思う。
マナーと信仰と葬式仏教
二七日法要に参列?してきた。
聞き慣れているものと宗派が違うせいなのか、経文が殆ど聞き取れない。
ちょうどお坊さんの手元が見える位置に座ったので眺めていると、
まあ聞き取れなくても当然かという文字列が並んでいた。
あれが日本語として聞き取れるセンスの人間はそうそういないだろう。
決してお坊さん本人や施主を侮るつもりはないが、法要の意味が分からなかった。
仏前に供え物を並べ、お坊さんを招いて読経してもらう形式しか理解できない。
故人を偲ぶでもなく法話を聞くでもない。
「あれは亡くなった人との距離を確認するためのお別れ会が何度もあるだけだから」
という解釈をする人もいたが、そういうものなのだろうか。
何度もあるお別れ会に粛々と顔を出すのがマナーということだろうか。
あいにく故人と親しくする暇がほとんどなかった私には、それもいまいちぴんとこなかった。
不謹慎にもよく思うのだが、仏様はあの経文を聞き取れるのだろうか。
古い中国語のような文法で並んだ漢字を日本語の音読みで発音されて、
インドにおわしました筈の釈迦如来に祈りは届くのだろうか。
それで分かっていただけるぐらいなら、日本語の平文口語でも十分ではないのだろうか。
「分からないが何となくありがたがっておこうか」だけで今まで続いている習慣ではないのか。
だとするとそれは仏教ではない土着アミニズムの形ではないかと気になってみたり。
カタカナ表記で外来語が輸入されそのまま使われる文化の土壌は仏教まで遡れるのかと訝ってみたり。
「分からないもの・知らないもの=神秘=ありがたい・かっこいい」が昂じてこうなったのか、
無難に前例をたどるのがよしとする振る舞いそのものが継承されてこうなったのか。
いわゆる葬式仏教なるものの原因は、その理解のなさにあるのではと思った次第。
法話を持たない宗教者と、教典を見ない信者。
しかもわざと両者は理解し合わないのではないかと。「ありがたみ」のために。
たかが「かな」?
Googleニュースで新聞各紙を斜め読みしてふと気づいた。
今をときめく国連事務総長「潘基文」氏の読み仮名が実は複数ある。
私はてっきり「パン・ギムン」で統一されているものだと思っていたのだが
日経では「バン・キムン」になっていたのだ。
気になって「潘基文」で検索してみると、外務省では「パン・ギムン」、JICAでは「バン・ギムン」
そもそも外国語の発音をカタカナで書き取ろうということに無理があるのかもしれないが
人名の読みを検索するときは下位結果まで見て最多のパターンを探さないと、という教訓になった。
幸い中国の人名は漢字表記のまま読み仮名なしで通用することが多いものの、
ごくまれに読み仮名を依頼されることがある。
例えば「胡錦濤」主席はたいてい「フー・チンタオ」なのだが「錦」は「ジン」ではないかと迷うときもある。
しかし、なまじ漢字表記のまま通用してしまっているがゆえに、それどころではなく
実用上「こきんとう」になっている場合が多いのではないだろうか。
滅多に見ないテレビのニュースでは「こきんとう」だった気がする……
短い方が難しい
全部で71語というトホホな分量の追加発注をもらった。#流石に単独だったら拒絶したと思う
どうもホームページの見出し文字列らしい。
全体の文脈がないので訳語を探すこと自体が骨だったが、
何より大変だったのは”Book Now”と”Reservation”の訳し分け。
これが英語のテストなら両方とも「予約」で正解もしくは「今すぐ予約」と「予約」だが、
意味の同じ語句を書き分けている意図を考えねばならない。
支給された「原文」はWordにべた打ちだったので配置も色も分からなかったが、
客先の名前から該当のページを検索して手元の「原文」と見比べてみた。
なるほどなるほど。片やボタン上の表記、片やその検索窓の見出しだったのだ。
一語しかない「原文」の意図もホームページ上で見れば何のことだか分かる。
やはり「言っていることではなく言いたいことを訳す」原則は大事なのだと感じた次第。