黒川伊保子『女たちはなぜ「口コミ」の魔力にハマるのか」読了。
本を読んでこれほど面白いと思ったことはない。
知識を吸収する快感でもなければ、美しい表現に出会った喜びでもなく、面白さがあった。
書名は誰が付けたのか、あまり内容の本筋とはつながっていないように思う。
乱暴に紹介すると、男性のために女性脳の動きを紹介した本だ。
また、言葉の意味ではなく語感が持つ力についても具体的に述べている。
女性は語感により敏感なので、「口コミ」がよく効くという。
耳にする音ではなく、その手前の、口にする音の力が意外と重要であるらしい。
「さっと片付ける」「ざっと片付ける」の違いなど、言葉の本としても面白かった。
日本語ネイティブであれば習わずとも「何となく」分かる語感を発声法から解説してある。
いちいちそれぞれを覚えたり自分で分析しようという気になったりはしないが、目から鱗だった。
日本語に多い擬音語や擬態語の由来が発話するという行為の身体感覚だったのかとすら思う。
言葉の意味は大脳で処理されるが、語感は小脳で処理されるという指摘も大きかった。
自分の身体感覚に照らして正しいと思える表現も、故なきものではなかったのだ。
無論、和訳の仕事で紡ぎ出す日本語は目的に即しかつ公正なものとしなければならない。
その絶対条件を満たした上で読み手に安心感を与えられるものが語感なのではなかろうか。
より「しっくり来る」表現。
実際に声に出すのは憚られるにしても、訳文の音読イメージは意識するようにしてみたい。
卒業
気に入っていたスカートを捨てることにした。
背面が総ゴムシャーリング、正面でボタン留めという着脱のしやすいフレアスカート。
水色のブロード地に白い梯子レースが入ったデザインも好きだった。
それでも、着られなくなったら手放すのが筋だろう。
着古しているので、リサイクルショップやオークションに回せる状態でもない。
ありがとうと声をかけて畳み、袋に詰めて捨てるつもりだ。
お気に入りとの別れであるが、悲しくはない。
緩くなって穿けなくなったのだ。
上述の仕様なので、前~横の身頃を裁ち直さないと細身に修正できそうもない。
そこまでするほど技量もないし、執着もないので、卒業することにした。
そこへ届いたセシールの最新版カタログ。
ざっと目を通したが、ここにお世話になることも当分なかろうと思う。
サイズの豊富さと価格で重宝していたのだが、今はどちらもよそで間に合うのだ。
客観的には些細なことかもしれないが、私にとってこの卒業の意味は大きい。
ようやく体型コンプレックスから片足は抜け出せたのだ。
私は物心ついた頃からころんころんに太っており、服の選択肢が皆無だった。
年の離れた従姉がしゃれたお下がりをくれていたので、みすぼらしくはならなかったが。
子供の頃から子供服にはあまり縁がなかった。
今から思えば、そのせいでやたら年上に見られていたのかもしれない。
その勢いのまま育ってしまい、高校の頃にはBMI30ほどの化け物になっていた。
通学は制服なのでどうということもなかったが、当然オーダー品でないと無理。
私服に至っては半分ぐらい男物を着るしかなかった。
大学進学で大阪に出てから、都会の恩恵で多少は「サイズ物」の選択肢にありついた。
しかし「サイズ物」は当時まだ「ミセス物」が主流で、やはり老け込むものばかり。
「人は見た目ではないから」という気休めに甘え、身を包めればよしという価値観だった。
そんな価値観(中身)では「見た目ではない」どころでないことも分からず。
一番いいはずの時期を、そんなこんなで無為に過ごしてしまった。
痩せる努力を怠っていたわけではない。
色々なものを試してはみたのだが、どれも決定的な効果が出なかっただけのことだ。
見た目にどれだけ妥協しても買わざるを得ない肌着の供給源がセシールだった。
スーパーの店頭では見かけないサイズのものでも、通販なら手に入る。
しばらく使っているうち、「普通の服」でも着られそうなサイズが揃っていることに気づいた。
斯くして第一段階の脱皮を果たしたのが大学卒業前後。
それから十数年、かなりお世話になった。
体型そのものも化け物から人間に近づいてきたので、どうにか街を歩ける格好に。
通勤のために最低限必要なものは揃えられたので、清潔感ぐらいは出せるようになった。
無難なものが見つかって安心してしまい、気づけば箪笥には同じような服ばかり。
勤めていたころは、それでもよかった。
自由業者として独立してから、全く別の事情に気づく。
日常の買い物をする程度しか家を出る必要がないと、やはり身を飾り立てる需要はない。
それが昨年来、人と会ってみようと思い始めてから困ってしまった。
採用面談やら商談やらに臨む服ならあっても、お友達と遊びに行く服がなかったのだ。
試行錯誤で買い足して行くうち、着替えそのものに気分転換効果があることに気づいた。
そうなると、「仕事(での外出)向き」「遊び向き」両方を揃えてみたくなる。
そこに面白い偶然が二つ重なった。
個人輸入で遊べるようになったことと、自分に合うトレーニング法が見つかったこと。
内外の両面から自分を変えていける気がしてきた。
たかが身なりのことで大げさかも知れないが、考える気になっただけでも進歩なのだ。
…と言ったところで理解できるのは母ぐらいのものだろうが。
専門書より専門誌?
以前にも書いたとおり、私にはこれといった専門分野がない。
しかし専門性が高いと言われる原稿は容赦なくやって来る。
従来は、用語辞典(中日で見あたらなければ中英)とネット検索が主な情報源だった。
検索するものは専門商社/メーカーの商品説明ページであることが多い。
学術論文に行き当たることもあるが、使える資料は合理的な手間では見つからないものだ。
そこで各分野の入門書や大学教科書などを浅く広く読んではみたが、当たる確率は低い。
求められる知識だけでなく、その世界の文脈を見て取れる資料はないものか。
これまで気づかなかった不明を恥じるばかりだが、実は各業界に特化した雑誌が一番だった。
想定読者が見慣れているであろう用語や文体がぱっと見に掴みやすい。
しかも本文だけでなく掲載広告までが分かりやすく参考になるものだ。
例えば産業用水調査会の月刊『用水と廃水』は、水の浄化施設/設備について詳しい。
広告も水処理プラント設備だったりする。
一方、日本ベアリング工業会の『月刊ベアリング』には機関誌らしい企画記事もあった。
他誌もそれぞれに有用で面白くもあるのだが、利用する上で未解決の課題はある。
目的の資料に辿り着く経路が通常の検索では追いつかないのだ。
漠然とした需要からでは、書架へ行って各誌を数枚めくるぐらいしか検索ができない。
納期に余裕がある案件なら、調べ物に集中する日を作って図書館を訪ねてもいいだろう。
問題は急ぎの場合。仕事環境ごと持ち込んだものだろうか。
と言うのは、専門誌は館内利用に限定されているのだ。
複写するほどのものでもないが、ざっと読んで覚えられるものではない。
…結論は出ているか。平時に定点観測をしておいて、いざという時に館内ノマド。
何だかかっこいいような、いまいち現実味がないような。
つながる、はみ出る楽しみ
ついったーのアイコンが日本翻訳連盟(JTF)機関誌の表紙に掲載された。
JTFの会員でも関係者でもないのに気恥ずかしいが、顔写真ではないのでよしとする。
編集委員の方から掲載したいと打診があったのでアイコン画像を送ったまで。
話の経緯は全く知らないし、掲載誌を見せてもらったが内容にも関係はなさそうだった。
厳密に何日とは覚えていないが、ついったーで実名を使うようになって今月で一年。
もっと前から使ってはいたが、皆さんとの交流が盛んになったのはそれからのことだった。
ごく少数の例外を除き、同業者からは名字で、鳥仲間からは名前で呼ばれるように。
人名らしからぬ「ユーザー名」よりもよほど呼びかけやすかったのだろうか。
近くに住む人と時々ご飯を食べに行ったりできるようにもなった。
東京へ出かけるたびに遊んでくれる人々も。
こうしてかまってくれる人々をネット上の人間関係だと割り切りたくない。
割り切った方が楽な日もあるかもしれないが、ネットをはみ出た関係のほうが面白く感じる。
つながるきっかけがネットでありついったーであったというだけで。
公園に居合わせたとか、同じ電車に乗っていたとか、そういうものに近いような気もする。
出会いが何であれ、親しくなれる人とはなれるし、続く人とは続く。
他の場と違うのは、こちらから声をかける抵抗感がやや薄いことだろうか。
ゆえに、相手や第三者を傷つけうる発言だけはするまいと気をつけてはいる。
とほく昭和のおほん時
古い歌を聴いていると、電話の使い方で時代を感じることがある。
「ダイヤル回して手を止めた」
平成生まれの子にダイヤルを回すという概念が分かるだろうか?
確か電話のかけ方は学校では習わなかった。
家庭でそれとなく教わって知るものだとしたら、電話の発信は最早ダイヤルではないはずだ。
尤も親世代はダイヤルを知っているだろうとは思うが、伝えうるものだろうか。
「手で覚えてる電話番号」
携帯電話ではメモリに連絡先を記録してしまうので、誰の番号もまるで覚えなくなった。
メモや電話帳、連絡帳などで電話番号を管理することもない。
ましていちいち特定の人の番号を入力することは考えがたい。
「夜更けの電話あなたでしょ」
携帯電話やナンバーディスプレイ対応の固定電話では、こんな風情はない。
あなたでしょ、ではなく、確実にあなたであるか否かが表示されて客観的に判定できる。
電話ひとつかけるにしても、細かな幾多の手続きや障害がある。
こうした風情や気分を、前提を共有しない世代にうまく伝えることは可能だろうか。
古典の授業のようにまとめて説明するのも無粋な気がする。
もののあはれと同列に黒電話が並ぶのも何かおかしい。
おかしいと思うのは、私が昭和の人間だからだろうか。
レコードに触れたことがない私でも「針が下りる瞬間」を理解できるように、
なんだかそういうものなんだろうなと分かるものだろうか。
まだ登場人物が生きている、半端に昔の話。
どこまで断絶なく、説明なく、共有できているのだろうか。
薄皮たい焼 銀のあん
全国?チェーン店。あずき150円也。
「美味しく召し上がれますように」と言いながら渡してくれた。
薄皮と名乗るだけあって、あんが透けて見える。
生地は香ばしく、咬むと本当に音がしていた。
あんはややさらさら。甘さが強かったものの、厭な後味はなし。
井津美屋
和菓子屋が鯛焼きも扱っている体裁の店。つぶあん136円也。
大振りでふかふかな印象。
「和菓子屋さんのあんこたっぷり!」と自慢げに標榜しているが。
絶対量は多いのかもしれないが、相対的にはむしろ少ないほうに入る。
確かに和菓子屋のあんこと言える上品なあんではあったが、生地の勢いに負けていた。
救いは生地がさほど甘くなかったことか。
女子会ごっこ
下戸だけど飲みたい、とつぶやいたら、お相手してくれる人が二人も現れた。
あれよあれよという間に本場の鶴橋で焼肉を堪能することになり、夕刻に待ち合わせ。
二人は初対面だそうなので、勢い私が引き合わせる形になった。
駅前すぐに鯛焼き屋があるので覗き(別項「一輝」)、市場で少し買い物をしてから焼肉屋へ。
三人のうち、まともに飲めるのは一人だけ。
私は最初の一杯だけ葡萄酢のサワーにしたものの、あとは飲まなかった。
盛り合わせ、生肝、塩タン、赤身ロース。
次々と注文しては焼き、箸を延ばしたが、黙々とではないところが女子会たる所以。
他言すると角が立つ内容も一部あったので、話題については記録を避ける。
まあ酒の席の無礼講というほどひどいことも言ってはいないのだが。
派手に盛り上がるということもなく、意外にまったりと食事会の空気だった。
同業つながりとは言え、互いの日常や仕事に接点はない。
だからこそ気楽に食事ができるのかもしれないが。
フリーランスにも勤め人にもそれなりの苦労はあるし、旨みや生きる知恵みたいなものもある。
特にそれをひけらかそうともせず、聞き出そうともせず。
生キャベツと一緒に噛みしめながら、何事も安直に決めつけるものではないなと思った。
一輝
ベビーカステラと鯛焼きを扱っているお店。十勝あずき120円也。
焼き上がりの商品は特に保温するでもなく積んであった。
味というより食感で好き嫌いが分かれるかもしれない、ふかふかの生地。
未検証ながらベビーカステラと同じ生地かもしれないと思った。
あんは砂糖分が強く、ややさらさら。
生地も甘かったのでちょっと救いがない感じだった。
幸福屋
商店街の中でたこ焼きも扱っている。小倉100円也。
よくある大量生産型だが、実は一匹がかなり大きい。
価格と大きさで想像は付いたが、あんは少なめ。
ういろう部長をして「ベーキングパウダーの味がする」と言わせしめた一品。
多くは語るまい。