気づけば20年

フリーランスとして最初の仕事をもらって早20年。
厳密には覚えていないが確か3月だった。
相手先の会社と担当者の名前は覚えている。

AI時代になくなる仕事の筆頭らしいが、今のところ生きている。
我ながら情けない売上の年もあったが、赤字にはなっていない。
こうして生き延びる術そのものに価値があるかと思ったほどだ。
が、むしろその価値に買い手はつかずFPは開店休業が続いている。

変わったことと言えば主に通信環境だろうか。
・メールがPOPメーラーからGmailに移行
・スマートフォン登場により随時メール確認可能に
PCは何度か買い換えているがソフトウェア環境に大きな違いはない。
取引先に指定されライセンス供与を受けているものが増えた程度。

所謂コロナ禍で実務案件は減った。
これから人の往来が回復するとまた状況は変わるかもしれない。
大陸で締結することになっている契約書も多い。
文化面の民間交流とやらがどうなるかはまったく読めていない。
自分以前に、日本の存在意義がかつてほどあるだろうか。

開業当時は分かっていなかったが、政治の影響は大きい。
人様に愚痴ってもおわかりいただけることはまずないが。
複数の面で、自分は少数派であり続けるような気がする。
こんなやつが一匹ぐらいいても世界は回るだろう。

恐らく巡るもの

インターネット経由でニュースを見ていると広告が目に付く。
内容以前に表示されている文字列からして不快なものも多い。
そしてそれぞれが商品内容に関わらず酷似している。
特定の雛形に商品の特性らしきものを埋めているようだ。
どうやら「アフィリエイター」の「仕事」らしい。
広告宣伝のプロではない人々が二束三文で書いている。
なるほど「マニュアル作業」なら量産も頷ける。

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機械に使われていまいか

このところ某社の訳文の「チェック」が煩わしくてならない。
無論、見直しを放棄しているというわけではない。
取引先指定のツールで機械的に「チェック」した結果がひどいのだ。
1.「訳文が編集されていない」
2.「異なる原文に同一の訳文が当てられている」
3.「タグ順が違う」
どれも人間ならば指摘しない「エラー」である。
このうち1.は中国語と日本語だから多発するものだ。
例えば「2018年8月9日」と原文にあったら訳文も同じになる。
最もひどい例では項目番号の「①」しかないのに「エラー」だ。
他にも見た目に変化のない対訳は存在しうる。
2.と3.は取り扱い言語が異なってもよく出てくるだろう。
「エラー」が出れば真面目に確認はするが、まず誤訳ではない。
原文の句読点に全角と半角が混ざっている場合に頻発する。
訳文では句読点を全角に統一するため2.の「エラー」が出る。
そして3.については数字の位置を動かすと出る。
アラビア数字は半角、漢数字は全角のせいだ。

「おかしなエラーは無視してください」と担当者は言う。
言うのは実に簡単だ。
その処理が何千回もあるのに。
人間だったら指摘するはずのない「エラー」処理が。
しかしその「チェック」を経ずに納品はできない。
訳しようがない箇所は対象外に指定してくれと頼んでも返事がない。

機械ほども信用してくれないんでしょうか。

日本の技術は世界一、なの?

持論のようなものはついったーに出さないことにしている。
どうもここのところ偏った言論空間に見えて仕方がない。
中でも目に付くのが「ものづくり」の素晴らしさ云々。
テレビが焚き付け、週刊誌が拾い、ネットに拡散している模様。
確かに紹介されている個々の事例はすごい。素晴らしい。
しかし褒めそやされているものは得てして個人技だ。
テクニックであってテクノロジーではない。
それでは産業としての強みにはなっていないはずだ。

「うちが欲しいのはテクノロジスト、テクニシャンじゃねえの」
新卒で入った会社の先輩の言葉を思い出す。
その先輩は、私どころでなく英語を苦手にしていた。
それでも「技術者」と言わずカタカナ表現を使った意義は深い。
「技術者」ではあいまいだから、である。
メーカーで言う「技術」は専ら「テクノロジー」だ。
一定水準の製品を安定して生産するための「技術」。
体系化、手順化され、むしろ個人技能への依存度は低い。
聞いた当時は非人間的に響いて抵抗感を覚えていた。
しかし考えてみると会社員は代えが利いてなんぼのもの。
経営の観点からすると当然なのだった。

……なんてことが最早つぶやけない。

場と信仰と運と

ここ半年で有名な寺社をいくつも拝観してきた。
そもそもが不信心なのだが、得られたものがひとつある。
「あれ」は単なる不運だったのだ。

最初の「被害」を認識してから30年では済まない。
しかも断続的に10年ほど、いじめられっ放しだった。
そして「加害者」は複数だった。
今なおどの件の「主犯格」の氏名も諳んじられる。
しかし、やっと、彼らへの処罰感情を手放せた。
自分に残る傷跡には関わらず。

恐らく彼らに加害の記憶はない。
それどころか私が存在したという記憶もないだろう。
単なる子供の気まぐれが思い出にはなるまい。
たまたま出会った蟻を踏み潰したようなものだ。
それがたまたま蟻でなく私だっただけだ。
黒くて些か異質なので目に付いた、ただそれだけ。
その攻撃の動機に恨みも怒りもなかっただろう。
まして「被害者」が法的な訴えも自殺もしなかった。
よって何ら「罪」の「証拠」もない。

思い出しても不快なだけ、忘れろと言うのは易い。
しかし忘れたものは意図せず思い出すこともある。
だから、自ら手放すことに価値がある。
自ら。

恵みも災害ももたらす自然を祀った神社。
救いを求める感情を束ね、寄る辺を作った仏閣。
自分ではどうしようもないことがある。
信仰はそのやるせなさの受け皿なのかもしれない。

社格の高い神社や人里離れた仏閣は空気が違う。
空気が違うからそこに築かれたのだろう。
敬意を形にする場にふさわしい空気。
敢えて記憶をとどめておくに堪える空気。
そこに昔の人々の思いを形にしたものがある。
こうした場はもう新たには作れないのではと思う。
すがる気はないが、それでも救いは感じた。