老後を見るということ

幼少時とてもお世話になった伯父の法要に出てきた。
遺影の横に飾られた白黒写真の船乗り姿がりりしかった。


晩年を某ホームで過ごした伯父は、ホームの共同墓地に眠っている。
共同墓地と言っても敷地内ではなく、市内の由緒ある寺院の霊園である。
墓誌銘にしっかりと彼の戒名も刻まれなかなか立派なところだった。
入居者は希望すれば同じように供養してもらえるらしい。
本当の最後まで面倒を見てくれるところなのか、と妙に感心した。
荼毘に付す手配から相続もろもろの手続きを頼む司法書士の紹介まで。
喪主となる身内が地元にいないことを想定して用意しているのだろう。
期待していたより手厚いサービスで助かったと従姉が言っていた。
田舎を離れて暮らしている上に自身の仕事もありとんでもない忙しさではあろうが。
家族を亡くすとしばらくは手続きなどに忙殺され悲しむ余裕もない。
或いは、だからこそ四十九日や百箇日の法要があるのかもしれないが。
法要に参列した複数の身内もホームの仕事に感心していた。
これだけ(雑務も)やってもらえるなら子供が近くにいなくても安心だね、と。
それなりに費用はかかるのだろうが、子供の負担を減らしたい親心もあるようだ。
誰より母が、何年後とは言わないが入居の算段をしている。
友人知人が多く気候も穏やかな地元は離れたくないが、自活には運転が必須。
加齢以前に目が弱いこともあり、あと何年こうしていられるかとこぼしている。
ホームに入居したからと言って自炊ができないわけではない。
居室には台所もあり、マイクロバスでの買い物ツアーも定期的にある。
あながち悪くない暮らしが待っているのかもしれない。
まだ先のことのはずだが、有り難いような寂しいような複雑な気分ではある。

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