あたりまえのこと

何でも屋とは言え、仕事の本質は日本語屋。
「国語」は苦手なのだが言語としての日本語については意識して興味を持つようにしている。
書きたい、書けない、「書く」の壁なる本を読んだ。
錚々たる顔ぶれが日本語についてあれこれ述べていて面白いのだが、看板に偽りあり
日本語を書くことについて説明された文はほとんどなかった。


よく本を読め、字を書け、辞書を引け、諸事を楽しめ。以上。
31人もの大家が合計150枚以上の紙幅を割いても、私が読み取れたのはそれだけ。
なんともあたりまえのこと。
無論、流石と唸るような美しい文もあればそうだったのかと面白くなる知識も満載だった。
それでも「書くこと」は何かというと上記に尽きる気がしてならない。


はっとさせられたのは、収録されている『数学者の国語教育絶対論』にあった次の一節。

脳の九割を利害得失で占められるのは止むを得ないとして、残りの一割の内容でスケールが決まる。ここまで利害得失では救われない。(改行)ここを美しい情緒で埋めるのである。

実務に直結しないが大事なことではないか。


本から話はそれるが、優しい人の日記は語調も行間も優しい。
私的な文書だけによけい人柄がにじむというのもあるだろう。
文字情報だけでは足りぬ(だから手書きに回帰せよ)という向きは多いが、何のなんの。
もしかすると読み取る能力や努力あってこそ味わえるものなのかもしれないが。


あたりまえの毎日をあたりまえに過ごし、少しだけ多くのことを感じ取る。
意外とそれだけでも自分とその文は育っていくのでは。

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