約10年ぶりに古巣の様子を伺ったのは他でもない、改めて入門するためだった。
受講してみることにしたのは、その名も「はじめての通訳訓練」
実は通訳訓練は全くの初めてではない。
通学当時、翻訳と通訳の同時進行講座を受けていたことがあるのだ。
同時に学び取るのは無理だと感じ、翻訳を選んで今に至る。
10年前に聞きかじった程度なので、まっさらから始めることに。
通学そのものの負担も見る目的があるため、4回完結の短期講座を選んだ。
講義の導入部はほぼ全て中国語だった。
やや必死ながら聞き取って理解することはでき、少しだけ安心したあたりで本題。
「通訳の言葉は聞き取りやすいこと」
当たり前なのかもしれないが、聞いた瞬間はっとした。
具体的には、通る声で一定速度で話すことだという。
これが中国語で実際やってみるとなかなか難しいのだ。
意味ごとに塊で吐き出してしまい、なかなか一定速度にならない。
先生の評価によると、一部の語彙が滑ったように速くなっているそうだ。
ここ何年も話す機会が皆無だったので無理もない。
手がピアノを忘れたように、口が中国語を忘れているのだと感じた。
喋れないという意識が口を塞いでしまい、麻痺したように動かなくなっている。
「大丈夫、訳出はきちんとできてますよ。いいじゃない。焦らず話してごらん」
相当おどおどしていたらしい。
他の受講者の訳例を聞いてみると、むしろ逆だった。
堂々とのびのびと、少し間違ったまま話している。
「いいじゃない、聞きやすいね。でも致命的にちょっと違うけど」
この先生、初学者が相手ということを意識してか必ず一度は褒めてくれるようだ。
指名が一巡して戻ってきたところで、先生は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「続けて訳してみて、」一拍置いて「自信を持って」。
「頭に口がついてってない」
かつて挫折した理由が今更ありありと分かった。
基礎訓練に耐えられなかったのだ。基礎を欠いては、推して知るべし。
帰宅してから仕事に戻ることもなく、雑念を巡らせながら寝た。
早朝に起き出して教材の中国語を何度か読み上げてみる。
流石に流暢さは幾分ましだったが、面白いように口全体が疲れた。
漠然と感じて持ち帰ったことは間違っていなかったらしい。
本業の翻訳業をしているほうがよほど楽に感じた。
聞き手に挟まれ囲まれる通訳業と違い、読み手と一対一で向き合えるのだ。
休憩中うろ覚えのソナチネを何曲か弾いて、指がもつれ滑っているのに気づいた。
一定のテンポもリズムも保てていない。
ピアノの運指も中国語の発音も同じことだ。
聞き手がいると意識して基本をしっかり抑えなければ全くさまにならない。
夥しい基本技能を叩き込み、その上で応用してやっと聞けるものになる。
通訳が言葉を発するのは、ほぼ常に複数いる聞き手のため。
その場の最大公約数に近い訳出をしようと思えば基本こそ重要だ。
聞きやすさ分かりやすさのため、できる努力は惜しまない。
そして現場ではそんなことを考えている暇がない。
瞬発的に答えが出せるよう、無数の引き出しを用意しておくのが通訳の訓練。
そこについて行けるか、ついて行くだけの力があるかを見極めたいと思う。
必要な力は恐らく知力や学力より気力、意志の力だ。
本気で向き合って結果的にそちらを志さないとしても、敗北ではない。