カルチャースクール

翻訳学校と呼ばれるものは、及び知る限り学位の取得できる機関ではない。
かつてその外見から「カルチャースクールね」と言われた記憶は今なお鮮明だ。
その時は、ちゃんと勉強しなさいという発破かと思っていた。


いざ通ってみて、半分は指摘のとおりだった。
受講生が学生でも生徒でもない。
現役社会人が半分ほど、残りは主婦と退官組。
だからとは違うのだろうが、期待していたプロ願望のようなものは漂っていなかった。
機会あって動機を聞くと、「中国語をもうちょっとやろうと思って」。
高尚なのだが、それこそカルチャースクールでこと足りる需要ではなかろうか。
そのぐらい、カルチャースクールの中国語講座と中日翻訳講座は似た空気だった。
どこまで行きたい、どうしたい、という目標がない。
講師と活発に言葉を交わしながら「好きなことをしている」。
先生とは呼ばれている講師陣も、特に敬意を集めているという風ではない。
確か業務経験も著書もある、かなりすごい人たちなのだが。
或いはその域を目指していないから、気軽になあなあと声を掛けられるのだろうか。
レベル判定はあっても入学不許可ということはなく、卒業しても仕事には直結しない。
自慢ではないが最初の案件にありついた時まだ在学中だった。
何か限界のようなものを感じ卒業まで通わなかったが、後悔はしていない。
改めて、似たような風景の場所に来てしまった。
「偉い先生」が胴上げぐらいの高さに持ち上がり「受講生」が賑わっている。
本来もっと高みにおわすべき人々ではないのか。
普段の目線よりは上に置いているのだろうが、置いている意識がないのか。
目指す高みはそこか。或いはそこを本気で見ているか。
結局そこに行こうとしていないお客でいるのが楽しいのか。
お客同士が同級生になるでもなく。
そこで孤立することには躊躇しない。
幸い独りでなんぼの商売だ。
三つ子の魂百まで。そう簡単には矯正できないようだが、この件はまあよしとする。

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