私の身近な人々、特に同郷の人々には鬱ないし類似疾患の人が多い。
いずれも「まじめで」「責任感が強く」「しっかりした」性質の強い人ばかり。
そんなことはよく新聞やら公報やらで目にするのだが、では何故そうなるかという話は聞かない。
専門医にしか公に語る資格はないのかもしれないが、まあ言論の自由ということで考えを書いてみる。
上記の性質が強い人は、許せないモノ・コト・ヒトが多いのではないだろうか。
・まじめさ故に、自分と接する相手にも何らかの誠意を求めてしまう。「相手もまともなはずだ」
・責任感故に、手元の仕事を放置できない。「これは・今・自分が・やらねば」
・しっかりしているという外部評価がこの二つに加わり「まさか自分がいい加減なことはできない」となる。
・そして「何でこうなるの(そんなはずはない)」と落ち込み、更に自分を咎める。
かつ、何かと「はず」「ねば」「べき」という帰結にたどり着きがちな人は理不尽なモノ・コト・ヒトに弱い。
雨が降ったり、景気が悪くなったりというような現象は、たいてい一個人のせいではない。
もし誰かのせいだとしたら、よほどの権力者であろう。
だがそういうことも、往々にして「自分の・誰かの行いが悪いから?」と考えがちだ。
そして、そういう人に「自分を責めないで」と声を掛けると、責め場がなくなって余計につらくなる。
本来は自分も他人も責める必要はないことでも、「自分を責めないで」と言うことで逆に「誰のせいなのか」気になるのだ。
ではどう話しかけるべきかというと難しいところだが、「誰も悪くない」というのも正解ではないと思う。
かといって「そんなこと気になさるな」と言って立ち直るぐらいの人は病院沙汰にはなるまい。
話をそらして済む場面ならそうするに越したことはないだろうが、「まじめさ」故に食いつかれたらどうしたものか。
恐らく、できる限り誠実に聞き流すのが無難だろうと思う。
「私はあなたを理解してあげる」と伝えてしまうと相手には重いが、「理解できない」と突き放すのもおかしい。
「理解してあげたいとは思うけれど、無理はしないで」という心情だけをうまく伝えられないものか。
……そう、べきべきねばねばを改善してあげたいと思ったら、自分がべきべきねばねばと考えるのは滑稽な話。「変だと思う」「多分それでいいんでないの」ぐらいのいい加減さが欲しいところだ。
いかんせん、べきべきねばねばな人が尤も許し難いものはいい加減さなのだが。