閉ざせる世界

いつものようについったーを眺めていて、急に、全ての会話が遠く思えた。
たくさんの人々で賑わう公園を横目に、一人で通り過ぎるような感覚。
それぞれの会話に気をつければ聞き取れないこともないが、参加できそうな話題もなく。
黙って聞き耳を立てているような自分が、無性に厭になった。
全く当然のことだが、私が参加しなくてもその世界は普通に回っている。
現実と違うのは、発言さえしなければ自分の存在が誰からも見えないことだ。
不気味がられることもなく、通報されることもなく、いつまでも存在し続けることができる。
誰にも気づかれることもなく。
ただ見ているのも虚しくなったので、しばらく画面を閉じてみることにした。


一晩たっても、虚しさが癒えることはなかった。
自分への返信もほとんどなかったが、原因はそこではない。
いつもなら遡ってでも読んでいた発言の主が、大変なことになっていた。
見ていなかったので、当然そんなことにも気づいていなかった自分。
気づいたらすぐに何か声をかけてあげられたかもしれない。
あるいは、まだ話しかける余地はあるのかもしれない。
でも、そうすることに果たして意味はあるのか。
逆撫でしてしまうかもしれないし、傷を広げてしまうかもしれない。
私がその人から見えないのと、どちらがましなのだろうか。
半面、大事な人をかばうことすらできずに、私がそこにいる意味があるのか。


意味もなく存在することが許せない自分がいる。
現実と違って、自主参加の世界だから。
画面の向こうにその世界があるのは確かだが、開かなければ見えず、ないのも同然。
同様に、何も言わない私は誰からも見えず、いないのも同然。
鬱屈した空気をばらまくぐらいなら黙っていようかとは思うものの、それが正しいのかは分からない。
もうしばらく頭を冷やしたら、帰りたいと思えるようになるだろうか。
「…いつまでも悲しみは、悲しいだけじゃないから」
ずっと例の曲が頭を回っている。

“閉ざせる世界” への4件の返信

  1. なんにも決まりなんてないですよ。
    私も一日中のぞく日もあれば
    まったくのぞかない日もありますし。
    いつでもみんな待ってますよー。

  2. ツイッターのいいところってあの軽さだと思うんですよ。あまり強制されない感じというか。会話の途中でも平気でぷちりと落ちてしまったり。
    もぎゃよめさんの一連の孤独と翻訳業とツイッターのエントリーのメッセージもそうだと思ったんですが、がっつりスクラムというよりも、「あー、私と同じような人がいるんだ」という発見というか、ぼんやりとした共感みたいなのがいいのかな、と。
    とか言いつつも結構お相手していただいていたもぎゃよめさんがTLからいなくなると寂しかったりして。こうしてブログに書き込みに来てしまいました。

  3. 同じような考え方というか感性の方がここにもいらして、些か驚きです。皆さんとのゆるいつながりを大事にしつつ、ご心配をおかけしない程度には顔を出そうかと思います。

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