賢いわけがない

自分をそう卑下するな、自己評価が低すぎる、とは大学を出て以来あちこちで言われてきた。
そう言われても、適正な評価を下すための評価軸がいまだにできていない。
判断に自信がないから、高すぎるよりはましだろうとどこかで思って低くしているのだろう。
だろう、と言うと無責任なのだが、はっきりと分かっていないものは断言のしようがない。
人様に折角お褒め頂いても素直に受け取れないのは、自己評価が低いせいだとは思う。
それにしてもこの年になって「賢い」と評価されるのは解せないところがあるのだ。
小さい頃から、「賢い」という言葉は気休めだとしか思っていなかった。
親しみを感じない相手に限ってかけてくれた言葉だったからだ。
きっと全面的にいい子だと言えないから、一部に限って褒めているに違いない、と信じていた。
大人には子供を褒めざるを得ない場面があるから。
なのに、もう子供とは言えない年齢になってから、むしろ親しい人々に言われるのはどういうことか。
賢くないので混乱している。
状況が許せばその理由を尋ねることにしているのだが、決まって驚かれる。
だいたい続く言葉は決まっていて、「反応が早くて的確だから」だそうだ。
反応が早くて的確であれば「賢い」と感じるのは論理的におかしくない。
おかしくないとは認めるものの、どうも納得がいかないのだ。
社交場の必要性もないのに言われる理由が分からない。
備えているべき知恵が身についていないので分からないのだろうか。
だとすると、やはり賢くなどない。
もしくは、発言者の意図が推測しきれていないのか。
何かが足りないのは分かるのだが、何が足りないのだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です