あるいわき市民の日常

件の震災から三ヶ月が経ち、両親も落ち着いたようなので顔を見せに帰省した。
前回は顔も出さなかったことを詫びたかったのだが、先に礼を言われ言葉に詰まる。
むしろ余計な心配をかけて悪かったとだけは言えたので、気は済んだことにしておくが。
特に何かを根に持つわけでもなく、以前の様子を取り戻せたようだ。
それまでと違うのは、テレビのデータ放送を両親がチェックしだしたこと。
NHKのデータ放送で放射線量の測定値を確認し、ノートに書き取っているのだ。
測定値の公表は一日に何度かあるが、必ずしも同じ時間に配信されないのだという。
それでも二人の共有とおぼしきノートには、三月下旬からの公表値が連綿と綴られていた。
値が小さくなってきたので「帰って来てもいいよ」ということになったらしい。


実家そのものは断水以外の被害を受けなかったので、まあ落ち着いていられるのだろう。
当初の物資不足(特にガソリン)は堪えたというが、今やたいていのものは店頭に並んでいる。
ガイガーカウンターだけはどこも欠品でね、と母が笑っていた。
帰省のたびに寄る和菓子屋もショッピングセンターも、見た感じ普通に営業している。
違うのは、地物の魚がないこと。
美味しそうな魚が手頃な値段で並んではいるが、産地は北海道だったり四国だったり。
千葉県産の鰹を見て少し切なくなった。中之作…。
八百屋には市内産の野菜も並んでいるが、放射線確認済みの手書きポップが痛々しい。
和菓子屋のレジには「浜通り元通り」と書かれた紙が佇んでいた。
どこの誰もが、自分なりに何かしらがんばっている感じ。


壊滅的な被害を受けたのは市内でも専ら沿海部とのこと。
よく連れて行ってもらっていた寿司屋はとても営業再開どころではない。
一件は運営元ごと廃業、一件は建物の基礎しか残存せず、一件は訪れようがないそうだ。
平の市街地には店もあるけど、と言われて、じゃあそこへ行きますかという気にはなれない。
地物の扱いがなくなって活気を失った市場もあるという。
一方で、実家近辺を含む旧平市の住宅街は何事もないような趣だった。
市街地の道路もところどころ亀裂はあるものの迂回が必要なほどではない。
ただ、よく見ると瓦が落ちている家は結構あった。
立派な大谷石の塀はどこの家でも崩れ、ブロック塀は鉄筋の力で生き残ったそうだ。
近くの団地で、それこそ石塀を撤去してブロック塀に取り替える外構工事の現場を見かけた。
母の話によると、瓦職人は向こう三年分ほど予定が埋まっているのだそうだ。
家の塀を直すのに二年以上も待たされる人がいるということか。
地味に(と言い切ると当事者には失礼だろうが)、傷跡は残り続ける。

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