「お願いがあるんですが」と電話。
前回納品分の訳文を自社スタイルに合わせて返すから参照してほしいとのこと。
「どうか気分を悪くされませんように」と丁重に念を押された。
日本語表現そのものにかなり手を入れているので、気を遣ってくれたのだろう。
誤記の訂正ではなく自分の紡ぎ出した日本語そのものが添削対象なのだ。
先にこう断ってもらえたからこそ心穏やかに受け取れた可能性は否定できない。
そこの会社は、既存の訳文があれば文体をそちらに合わせることにこだわっているそうだ。
先日も触れたと思うが、ものによっては原文言語が異なっていることもある。
規格文書の読者は、対応する諸規格を見比べ異同を確認するのが主な目的。
比較相手は旧版だったり他国での類似規格だったりする。
違う部分を分かりやすく見せるために、同じ部分は同じ書式にすべしという話なのだ。
しかし、反論したり抵抗したりする翻訳者が多いのだという。
・GB(中国規格)を訳すためにISO(国際規格)を漁るのが面倒だ
・既存の和訳文が高品質とは限らない
・自分がしたいのは翻訳だ
など、いくらでも言い分はあるらしい。
私も翻訳者の端くれ、どなたか存じないが彼らの気持ちは分かる。
自分の信条に従って案件の諾否を決められるのはフリーランスならでは、断ればよろしい。
引き受けておきながら抵抗したり逆らったりというのはいかがなものか。
翻訳会社ないしその担当者と議論を重ねてよりよい訳文が提供できるならよし。
いかんせん、この件において「よい訳文」は同社のスタイルに合わせたものと同義だ。
理由はいたって単純、発注者が明らかにそれを望み注文しているのだから。
できることなら、私とて注文された以上のものを納品したい。
しかし、「発注者の思いにより近いものが作れるのか」と考えると自重したくなる。
職人の自負を持って仕事をしているが、だからこそまず要望を飲みたいのだ。
芸術家でもなければ天才肌でもないことは自覚している。
となると残る戦術は「日本人が喜ぶ品質」の提供にあるのではなかろうか。
色々な意味で、合理的な程度に。
翻訳スタイルの修正に応じるか否か
「兼業翻訳者の迂闊な日常」の「手作りの無形商品」というエントリーに、訳文を納品したあと、スタイルの修正を求められたときの話が載っている。いろいろと文句を言…