言葉なんていらなかった

不意に時間ができたので、国立民族学博物館へ行ってきた。
博物館学の講義を受けていた頃に訪れて以来なので、実に15年ぶりである。
今回は気楽に、何も考えず見学してきた。


順路案内に従ってオセアニアから見始めた。
館内撮影可とのことだったので携帯で撮ってみたが、収まりきれない言語の数。
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オーストロネシア語族の移動の名残とのことだったが、それにしても夥しい。
また、資源が偏在するため昔から島同士の交易は盛んだったという。
あるからあげる、ないからもらう、そこに現金の概念はなかった。
交易品のひとつに「赤い鳥の羽」というのがある。
その文字列だけ見て一枚の羽を想像してしまったが浅はかだった。
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羽毛貨として展示されていたそれは、ミツスイ300羽分もあるという。
儀礼や罰金などに用いられたとあるが、使われる場面の想像が付かなかった。


続いてアメリカ大陸。オセアニアほどではないが、ここにも本来たくさんの言語が存在する。
英語やらスペイン語やらは後から持ち込まれたものにすぎないのだ。
知識としては中学校でさえ習いそうなものだが、地図で示されるとやはり息を呑む。
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アステカ文明の世界観が刻まれた浮き彫りに文字はない。
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そこから情報を読み取って伝えた人々の仕事も偉大だとは思うが、それを超える存在感。


そんな調子で各地域の展示を見ていたら、4時間が経過していた。
独りで見に行って正解だったと思う。
恐らく誰もつきあいきれまい。


以下、漠然とした感想。
1.正しさなどという概念は天然自然のものではない。
人間同士が関わるから、何らかの基準を必要として作り上げたものだ。
とある民族や利権集団の正当性などはその最たるもの。
支配者層が被支配者層を勝手に未開だの淫らだのと定義した傷跡がまだ残っている。
たちが悪いのは、その定義を知識として頭に入れてしまった第三者としての自分。
せっかく第三者なのだから、客観的に公平に事物を捉えたいところだ。
2.敬意は人を動かす。
民族文化というと伝統行事や儀礼の用具なり衣装なりが象徴的に紹介される。
どこの民族にも共通して感じるのは、自然を含む他者への崇敬の念だ。
いわゆる現代化が進むにつれ、形式とともにその中身も薄れつつあるような気がする。
生かされていることの意味は言葉にできなくていいものではと思った。
3.古ければよい、いわゆる伝統だけが善とは限らない。
外来の事物に影響を受け変化してきた文化は多い。
昔からの伝統が途絶えてしまったり、後から文献などを頼りに復活したりという例もあった。
そこに流れている、守るべき絶やさざるべきものとは何だろう。
何らかの形式かもしれないし、もっと漠然とした思想や概念かもしれない。
以下はアフリカの説明の一部。長いので写真ではなく文の内容を引用しておく。

 民族とは、言語や慣習、宗教、歴史意識などを共有する集団のことである。それとともに重要なのは、人びとがおなじ民族の一員だという意識をもっていることだ。たとえばある人びとが特定の社会に数世代にわたって暮らし、言語や慣習がその社会に一体化していたとしても、おなじ民族だとの意識がなかったなら、その民族の一員となることはない。法律によって決定される国民と、民族の違いはそこにある。
民族の観念には帰属意識が重要なため、ある人びとがどの民族かは自動的に決まるわけではない。アフリカの国家はすベて多民族国家であり、異なる民族間の結婚も多いし、宗教的団体や職業集団が民族の枠を超えて存在するケースもある。その意味では、民族とは流動的な観念であり、境界が明確に定められているわけではないのだ。
民族が重要になったのは、近代になって国民国家が地球上を覆うようになってからだ。19世紀以降、ヨ-ロッパ諸国は領土を定め、ー定の土地の住民を国民として囲い込むようになった。その観念がアフリカに持ち込まれたため、民族の意識をもたないで暮らしていた人びとにも、民族意繊が強制された。
なかでも旧宗主国は植民地支配を容易にするために、民族を分断して対立させるという政策をとった。そのことが、今日までつづく紛争の原因になっているケ―スは少なくない。

押しつけるべきではない、甘受すべきでもない、と言うのはたやすい。
一方的な発想に囚われないこと、自分の論理を持つこと。
世界に対して何ができるかなどと大それたことは考えつかないが、まずは目を開いた。


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おまけ。同館に隣接する自然文化園でコスモスフェスタが開催中だった。
こちらにも言葉は無用。

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