方針の違い

「はじめての通訳訓練」2回目。
先週とは違う先生だった。
前回が日中訳だったので今回は中日訳が主体。


指名された人が言いよどんだら、他の人が言葉を継いで完成させるようにとの指示。
「そうすれば、時間を節約してみんなが勉強になります」
本当か?
ほぼ全ての訳文が、つぎはぎだらけで流れのないものになった。
模範例が開示されないまま、定刻を30分ほど過ぎて終了。
その一方で、他の人の訳例も折角だから持ち帰るようにと言う。
(ただし文字に起こしたものは一切なし。聞いて覚えろとのこと)
特に今回は中日訳なので、中国語ネイティブが日本人の訳を「持ち帰る」番だった。
いくつかの言い換える表現だけ「持ち帰る」意味はあるのか?
例文なくそこだけ覚えても使えるようになるとは思いがたい。
先週くどいほど強調された聞きやすさが今回は全く求められなかった。
しかも語学教材にしかなさそうな「日本語」が次々と出てくる。
「通じればいいんです」
これはショックだった。
通訳現場ならいざ知らず、学習の場でそれでいいのか?
「今は現場ではなく教室ですから」という説明と矛盾を感じてやまない。
翻訳/通訳に「正解」がないのは百も承知だ。
自分の訳が正しいから聞け、みんなこれを覚えろなどというつもりは毛頭ない。
ただ、訳出すべきなのは発話単位であって文単位のはず。
語句単位や文節単位で訳すのは語学教室で習う範疇なのではないか?
独りで一文を言えずして、通訳訓練が成り立っているのか?


生半可な学習経験のせいで私が不遜になっているのだろうか。
文として間違いではないが決して自然ではない「日本語」が気になって仕方なかった。
日本語にこだわりすぎるのだろうか。
致命的に訓練が足りない証左なのだろうか。
「出せなかった言葉、思いつかなかった表現を覚え込みなさい」は正論だと思う。
であればこそなおさら、実用的で自然な表現を覚える必要があるのではなかろうか。
理論はいちいちごもっともなのだが、論理が成り立っていない気がした。


最初に提出した誓約書のおかげで具体的な例文/語句の内容は公開できない。

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