『中国の公と私』なる本を読んでいる。
現代中国の社会現象を眺めて公私の概念を整理した本かと思いきや全く違っていた。
そもそもの語源、定義まで遡って公とは何かを探求していく、むしろ哲学分野の本。
「公」という字は日本語で「おおやけ」と読む。
中国語の「公」と日本語の「おおやけ」であるところの「公」は別物なのだ。
そもそも両者が同質のもの(現象)を指した言葉でなかったため事態はより複雑である。
明示されればそんなものかと分かった気になるが、見た目は同じ文字。
いっそ英語のように最初から違う顔をしていれば出会わずに済む誤解も数あろう。
なまじ漠然としつつも身近な概念であるだけに、当惑を隠せない。
「中国だから」。差別やら軽蔑やらではなく、異文化だから意味することが違うのだ。
同書は日中の古典をふんだんに引き、特に注釈もなく本文としていることが多い。
いわゆる漢文は読み下しの体裁で収録されている。
最初は何の気なしにさらさらと読み流していたが、ふと我に返って驚いた。
半分以上の語彙を中国語のまま読んでいる。
「中国語」として見れば普通に流せる文が「漢文」となると妙に引っかかるのだ。
日本語としての漢文なるものがどこかに存在する。
文字や文を日本語のそれとして認識し、その解釈に基づいて仮名をふったもの。
それではどこか本義からずれているのかもしれない。
「公」が「おおやけ」と同義ではないように。
現代中国語の実務文書を見て漢文のごとく読みくだすことはないが、留意せねばと思った。
より虚心に、辞書に当たろう。