棲み分け使い分け

どうもFacebookなるものの使い方が分からない。
旧姓を晒さない限り旧知が見つかることもないのだろう。
結果としてついったーで知り合った人の一部だけが「友達」になっている。


結果、おおっぴらに言ってもかまわないことしか書き込めない。
本来もう少し閉じた人間関係での会話ができる道具/場のはずだが。
何ら閲覧制限をしていないこの日記やついったーと同様の公共性を感じている。
「王様の耳はロバの耳」と叫ぶべき穴だとは認識していない。
かといって人間関係の広がりもなさそうだ。
要は何がしたいのかというところに尽きるのだろう。
有用だと思う情報を発信したいとか、友達と思い出を分け合いたいとか。
今のところそのいずれもない。
ただ受動的に、連絡手段の一つとして持っているだけなのだ。
あるいは機能を習得すれば面白い展開が待っているのかもしれない。
そこでは誰と何を分かち合えるのだろう?
常々そうは思いつつも、自分の居場所を見いだせずにいる。
開かれた場のほうが気楽にわいわい話し合えると感じることも多い。
一方で、話し込むにはもう少し空間として閉ざされていたほうが落ち着ける気がする。
比喩的にではなく物理的に、空気を共有して話がしたい。
そう思ってしまうときにはネット上の何もかもが半端に見えて仕方ないのだ。
何故かメールだけは例外に感じるのだが、敷居の高さのせいだろうか。
送ろうと思い立って宛先を入力するまでに何故か勇気が要る。
そこまでしてこんなことを伝えたいのかと躊躇してしまうことも多い。
送信が成功したところで相手が読んでくれる保証はないのに。
最後の砦、「見ない自由」は担保されている。
だが、故に、よほどのことでもない限り電話をかけることはできない。
他者の時間に強制的に割り込むという意識が強すぎてほぼ無理なのだ。
薄情なのか考えすぎ/気にしすぎなのかは分からない。
ただ、人間が怖いのだとだけは敢えてここに書いておく。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です