少なくとも見た目にはどこへでも飛んで行けるのに、特定の場所に集まる。
協力し合うこともなく排斥し合うこともなく、ばらまかれる餌を傍若無人につつく。
時には無意味に追われても、適当にあしらって数分後には戻る。
それが合理的だからなのだろう。
近所の公園でよく見るドバトは実によく肥えている。
定期的に誰かしらは餌を撒きに来るからだろう。
餌を撒く人々がドバトの個体を識別しているようには見えない。
目に入ったから、寄ってくるから与えているだけのようだ。
特定の個体がかわいいからではない。
鳩は鳩で、特定の人間が好きだから寄りついているわけではないのだろう。
お互い、代わりはいくらでもいる。
反面、いつどちらがいなくなるかも互いに知らない。
似ている。
自分で稼いでいる野鳥のような顔をしながら、餌をくれる人を待っている。
せいぜい見えたら近づく程度。
或いはよそに天然の食物もあろうが、敢えて公園の地面を歩いている。
そのほうが自分にとって合理的に見えるから。
違うのは、飼われる選択肢も存在しうること。
とある派遣先でほんの数日だが、「何もしない」が仕事だったことがある。
客先なので業務外の行動は何も許されないが、業務が「完全待機」。
わざわざ片道1時間半も通勤電車に揺られ、ひねもす「何もしない」日々。
考えようによれば楽な仕事であったかもしれない。
それで前職の倍の月給があったのだから。
多かれ少なかれ、どこの職場でもそういう経験はした。
組織で働くということは、そういうものも含むものなのだろう。
餌の保障された籠の鳥。
自ら商品や技能を売り歩いているわけではないので、完全な野鳥でもなかろう。
ドバトほどの自立性もないかもしれない。
が、好きでそうしている。
他の餌場を探すのも、違うものを口にするのも自由だ。
最低限は飛べる。
中島みゆきのCDアルバム『EAST ASIA』同名曲によると、
「どこにでも棲む鳩のように地を這いながら
どんな大地でもきっと生きてゆくことができる」
その強さが要る。