港北OPEN!FACTORYなる工場見学行事に参加してきた。
当初2/15に開催予定だったのが前日の雪で一旦中止となり今月の開催に。
お目当ては「ものづくり」現場の見学だったのだが、期せずして濃い話を耳にした。
第二次産業の空洞化は学校で習うほど昔から聞いていたが、その中身。
一個人の見解に過ぎないとは言え、当事者の言葉は重かった。
「日本の休みが増えすぎたんで、海外にでも行かないとやっていけないんです」
「いまや1年の3分の1、4か月相当が休みなんですよ」
「労働時間にも上限が厳しく決められて、とても正社員ばかり使えやしません」
「それでも製品を出して売っていかなきゃ回らないんです」
一企業の経営者から見るとそういうことらしい。
なるほど法定休日が増えるほど人件費は相対的に上がる。
従来どおり働いてもらうには残業手当や休日手当が要るようになるからだ。
さりとて経営者から見れば労働者の価値が上がったわけではない。
同じ労働力を高く買わざるを得なくなり、経営体力が削がれるというのも分かる。
人件費だけでなく、設備の起動コストもあり操業の中断というのも難しい。
一方で会社と労組の板挟みで過剰に生産性を求められる職場というのも存在する。
知恵を絞れと言い放つのは簡単だが、それでいいのか。それで足りるのか。
組立や部品を外注化することで凌げる会社もあるが、それも業態による。
複雑化した部品や柔軟なライン構成の負荷ごと「購入」できる会社はいい。
一方でそれを「販売」する会社(事業者)がなければ成立しえない構造でもある。
「まあそうしたニッチで我々は生きているわけですよ」
単なる負担のしわ寄せと取るか、付加価値を訴求する市場と捉えるか。
前者の重みに潰れた会社も何万とあるという。
後者とて、言うは易し、である。
操業の文字通りの環境でも近年は大変らしい。
工業地帯だったところにマンションが後から後から建設され、住環境の保護を訴える。
「昔は共存できていたのに」と言うのが身勝手だとは思えなかった。
働く場を追い出され、その費用は背負わされるという立場も確かにあったのだ。
個々の住民が悪いのでもなく、不動産業者に罪があると言いたいのでもない。
そう簡単に割り切り整理できない問題だからこそ何十年も続いているのだ。
普通の人が普通に働くのがどんどん困難になっている。
仕事を供給する側もそれだけ苦労しているのだから。
世の不条理に耐えろというのではなく、「普通」を見直すべき時期なのかもしれない。
平日という日に7時間ほどの労働を提供して固定給を得るのがいつまで普通なのか。
すでにその軌道から外れても生活が成立している自分は恵まれているものだ。
月曜日の朝までに納品という価値の重さも昨日までとは違って感じる。