暗中模索

友人の頼みで、とある和訳文の校正を手伝うことに。


問題なのは、原文が全く読めない言語だったこと。
見るからに日本人の手によらない和訳の校正なら何度か経験がある。
訳出した人物についての情報がなくとも、訳文だけでそれだとぴんと来た。
辞書に載っていそうな日本語の語彙が文法書の例文のように並んでいる。
必ずしも間違いではないが、生きた日本語に見えない。
最初は直訳調なだけかと思っていたが、読み進めるたび疑いが確信に。
その文の想定読者が使うであろう日本語で書かれていないのだった。
同分野、同企業傘下、同目的の中文なら訳したことがある。
ほぼその経験のみに照らして日本語の当否を見ていく作業が続いた。
専門用語については当該言語を使える第三者からの指摘を盛り込んでいく。
指摘してくれた人もまた、言い回しの修正にまでは至っていなかった。
提供された情報が正しいものとして、文書の目的に合わせて換骨奪胎。
どうも訳出した人には「文書の目的に合わせ」る意識が抜けていたようだ。
ともするとそれ以前の段階の技量だったかもしれない。
致命的な誤訳はない、との前情報だったが、すらすら読める箇所もなかった。
間違ってさえいなければいいというものではないのだと再確認。
食べ物に例えれば毒性がないという程度。
好みが分かれるにしても食べられる程度に引き上げねば商品にはならない。
聞けば訳出した人は大学講師とのこと。
言語は教えるほど、日本語も説明に足る程度にはおできになるわけだ。
改めて、翻訳には語学力と異なる要素があると感じた。
自分で意味が分かることと、他者に伝えられることは違う。
向き合った相手に伝えられることと、まず会うことのない読者に見せられることも違う。
より表現を一般化し、誤解の可能性を潰す必要がある。
どこまで読者の常識につきあえるか、ついて行けるか。
そこに要るのは洗練された知見より場数や肌感覚のような気がしてならない。

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