普通の向こう

同じ発注元から2度目の全文修正指示。
全身が震えた。


相手の指摘は一理あるどころか全く正しい。
感情的になってさえ反論の余地が見つからない。
ただただ、そうした需要に最初から応えられなかったことだけが悔しい。
さりとて手を抜いたつもりは全くない。
つもりはないが、雑にしか見えないと言われれば否定はできない。
畢竟、納品物が相手にどう見えるかが最大の問題だから、言い訳はしない。
おおかた直訳に過ぎたということだろう。
丁寧にも一部の修正結果を見せてくれたので、なるほどと何度も読み直す。
自分が提出したものとの一番の違いは情報量だった。
原文には書かれていない補足情報(補足ゆえに当然だが)がてんこ盛り。
「普通の読者なら知らないことでしょ?」と言われればぐうの音も出ない。
知らなくても済まされると勝手に思っていたことがどれほど指摘されたことか。
決して自分が読者より中国事情に詳しいなどと思ってはいないのだが。
知らないまま読み飛ばしても本筋の理解に支障あるまいという読みが甘かったらしい。
例えば固有名詞に込められた寓意。
「霞ヶ関」「永田町」もしくは「秋葉原」のようなものである。
一見するとただの地名であり、そのまま読み流せてしまう。
しかし「霞ヶ関」と言えば官庁、「永田町」と言えば国会のあるところ。
それが中国の地名であればそうした補足があるべきではということなのだ。
そこまで思いが至らなかったのは能力の不足とも配慮のなさとも言える。
語学力ではない国語力。
「普通の人」に思いを馳せる試練は続く。

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