琉球なるものの存在にも興味があり、首里城へ。
大ざっぱな事前知識は那覇市歴史博物館で得ていたので、展示品の一部には頷けた。
琉球国王は尚姓だったが第二王朝の創設者は第一王朝の血筋ではなかったこと。
中国に対する手続きの便宜を優先して改姓も辞さないしたたかさゆえだったという。
そうした「したたかさ」を頭の片隅に置くと、色々なものが違って見えた。
おなじみ守礼門や正殿は中国様式を前面に出している。
いっぽうで王が執務していたという書院はまさに日本の書院造りにしか見えなかった。
日本式の節句は南殿で行い正月は正殿で中国式に迎えたという。
かといって琉球の個性は単なる日中折衷でもないのだった。
冠位十二階を彷彿とさせる身分別の冠だが、身分の定義そのものが独特だった。
「按司」や「親方(うぇーかた)」など漢字で示されても読めないものばかり。
公文書は漢文でしたためるしきたりだったので漢字表記があるのだろうが、琉球語だ。
ここまで見てふと、琉球語は日本語の派生ではなく言わば兄弟言語なのかと思った。
琉球と日本(島津藩や徳川幕府)は漢文を介して交流していたに過ぎないのかと。
両国が別個に漢字を輸入して既存の言葉を充てていった結果なのかと。
時代の必然なのかも奇縁なのかもしれない。
異国のものを積極的に取り入れ消化していった成果としての文化。
制作当時の琉球には存在しなかったはずの枝垂れ桜を染め抜いた紅型もあった。
ある種の異国情緒だったのだろうか。
「万国津梁の鐘」の銘文に刻まれた誇りにはっとする。
朝貢貿易をしていたからといって卑屈に臣従していたわけではなかったのだ。
貿易はあくまで貿易、自国を富ませるための経済活動であり事業だった。
もしかしてその姿はどこかで日本と重なっていなかっただろうか。