その場所から咲け

縁あってフラの舞台なるものを見てきた。
全く知識がないので巧拙のほどは分からないが、これが初観賞とは気の毒だとのこと。
受け手によって受け止め方が異なるということか。


フラ教室で出会った人々と揃いの衣装で群舞を披露するおばあちゃん達。
緊張で表情も動きも固くなり、振りを忘れたか慌ててきょろきょろする人も。
得も言われぬ笑顔でうっとりと躍る人もいた。
舞台上の彼女らは演者、もてなす側のはずだが、お客でもあるようだ。
娘ほどの年頃の先生にお月謝を渡し、サービスを買うお客。
ならではの表情、動きの人もあったのではと思う。
通には失礼なのかもしれないが、それはそれでありなのだろう。
幸せに笑顔を振りまいていられるのだから。
一方でそんなことを思いながら眺めている自分にぞっとした。何様のつもりだ。
観客に媚びろなどという気持ちは毛頭ないのだが、拭えない違和感がある。
一公演の見物として消費する立場だと、かくも不遜なのか。
お客様はそんなに偉いのか。たとえ中身が私ごときでも。
回り回って、自分の公開する文章やその断片もそう見られているのか。
テキスト情報や活字になってしまった文に苦労や工夫の跡など滲まない。
滲みがあればどこかの段階で周囲ごと裁ち落とすのが常でもある。
評価されるのは努力ではない。
表面に浮かびあがり、そして受け手の感じ取った結果だけだ。
あるいは見る人が見れば分かるのかもしれないが、期待すべきことではない。
見抜かれてはむしろ悔しいだろう。
伝えるべきこと、伝えたいことだけを感じ取ってもらうのが目標だから。
同情を寄せられてしまっては、その分だけ減点に感じるのがおちだ。
相手がお客様だから。
対価が得られるかより先に、線を引く必要がある。
実は、スポットライトを浴びていると客席の様子はほとんど見えない。
訓練や能力で見える人もおいでかもしれないが、自分には全く見えなかった。
光のこちらで演技に力を尽くすのはともかく、光の向こうなど見えていなかった。
今はそれが入力画面と表示画面ないし紙面と捉えてもいいのかもしれない。
途中に挟まる連絡メールや校正紙など、読者の知ったことではない。
察してほしいとも思わないし、察してくれとも言えない。
そういう次元に閉じこもっている。
蕾までしか手を出せないが、さてどんな花が開くか。

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