はじめての出張

在宅での翻訳は十余年しているが、客先での作業という経験は初めてだった。
機密保持の都合で原稿を持ち出せないからだという。
些か遠いのだが面白そうなので引き受けてみた。


当初、訳文を読み上げて客先の社内スタッフが入力するとかいう話だった。
セキュリティ上の問題で社外の人間にPCを触らせないのかと思いきやさにあらず。
「そのほうが早いかと思いまして。不要なら(入力スタッフを)つけませんが?」
他の言語で前例があったようだが拍子抜けした。
同行していた英語担当者と顔を見合わせ、不要という結論に。
訳出が進んでから遡及して訂正する可能性に思い至ったからである。
「まあ初対面の相手にちょっと戻ってとか言いにくいですかね」とお客さんも苦笑。
ものは難しくないが文字通り山積みされると多少の圧迫感がある。
手書き。人のことは言えないがかなりの悪筆も目につく。
判読できない箇所は「●●」で置き換えるという条件で作業を始めた。
制限時間は8時間。途中1時間の休憩あり。
文字数は不明。冊子はおよそ400部。
いつもとは異なる緊張感があった。
電子辞書を持参したが引くほど難しい単語は出てこなかった。
意味ある文字として認識さえできれば、という別次元の問題ばかり。
訳文(日本語)だけ入力すればいいのだが、意外なほど捗らなかった。
貸与されたA4ノート機のキー配置がどうもしっくり来ない。
訳文の入力先がExcelファイルなので本来ならHomeキーとEndキーが活躍する。
しかし大きさも位置も自分の直感に反するのでカーソル移動はマウスに頼った。
そして当然ながらマウスは普通の3ボタン。
日本語入力はMicrosoft純正のIMEで変換辞書もない。
自分用に作り込んだ作業環境がないとここまで不自由なものかと驚き呆れた。

普段は
・マウスは9ボタンでHomeキーとEndキーの機能も持たせてある
・日本語入力は省入力辞書とささやかな自作辞書を搭載したATOK2014
・ディスプレイは外付けで俯かず作業できる(ストレートネック対策)
・キーボードは外付けで打鍵感がしっかりある

さほど特別なものとも思わずに使ってきた環境も、なくしてみると有難みを感じる。
翻訳はほぼどこでもできる仕事ではあるが、効率的に/快適にとなると難しいようだ。
環境条件の違いと言えば、作業の場に他人がいるというのもほぼ初めてだった。
空港ラウンジなどの無関係な他人ではなく、仕事内容が一部重複する同士の同席。
珍妙な固有名詞に行き当たると質問とも悲鳴ともつかない声が上がる。
さらにお客さんが進捗を覗きに来る。
訳文を出力しながら会話など我ながらよくできたものだ。
黙ってから読み直したことは言うまでもないが。
往復の交通を除いてはつらい目に遭ったわけでもないが、慣れは怖いと思った次第。
恐らく宮仕えに慣れた勤め人は話しながら手元で仕事するのにも慣れている。
そしてチャイムが鳴れば休憩室に集まって次のチャイムで整然と去って行く。
幸い予定より早く訳出を終え、検収してもらって上がることはできた。
英語担当者がいつまで苦闘していたかは分からない。
「また機会があれば是非」と疲れた笑顔で送り出してくれたがその本音やいかに。

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