編集職をしていた頃、「介在する価値を考えろ」という言葉があった。
自分がその事業に参加することでどういった付加価値をどれほど増やせるのか。
そんなことを思い出したのは、同業の友人に某雑誌の記事を見せられたからだ。
翻訳調の文章だと聞いたのだが、それどころか直訳と批判できる水準ですらない。
さながら学校英語の模範回答例である。
上等な機械翻訳でなら瞬時に出力できそうな日本語文だとも感じた。
原文が何語かは知らないが、単語や構文が日本語のそれになっているだけの何か。
商品として販売されている雑誌の記事には見えない。
何も足さない、何も引かないと言えば聞こえはいいだろう。
文単位で見ればなるほど正しいのかもしれない。
しかし文章全体としての語句の過不足を足さない、引かないのはいかがなものか。
ましてその雑誌は語学学習者向けのものではなく、日本語で書き起こされた記事もある。
訳された記事と書き起こされた記事の印象がおよそ同じ本の内容とは思えないのだ。
本全体の方向性や文体、表現の統一をするのは編集の仕事である。
翻訳者を含む個々の記事の執筆者には本全体は見えない。
全体が見える立場の人間が訂正なりその手配なりをするのが編集工程のはずだ。
雑誌には雑誌、説明書には説明書の役割があり商品性がある。
その商品性を作り、維持するのが編集だとも言える。
記載内容でなく表記や表現で読者に頭を使わせるのは雑誌の商品性に悖るのでは。
原文の内容が伝わればいい、というだけであれば翻訳者すら不要かもしれない。
どこぞの翻訳サービスの出力結果だけでも用が足りることさえありうる。
読むのが日本語の使い手である以前に人間であるということを考慮しないのであれば。
人間には感情、主観、立場などがあり、場合によっては決裁権さえある。
その人間である読者と人間が書いた原文の間に介在する翻訳者もまた人間だ。
ならば、書き手が表したいことを汲み取り、読み手に無用な負荷をかけずに伝える。
おのずと表されていることだけでなく、消化しにくい体裁のままでもなく。
翻訳者が介在するにあたって提供すべき価値は他にももっとあるだろう。
そうした価値が人間に必要とされなくなった時が翻訳事業の潮時なのではと思う。