書けば伝わること、話せば分かること

母から雪はどうだねとメールが来たので電話をかけた。
世代的に行動が逆だろうと笑う向きも多かろうか。


相手は急ぎの用事でもないのでメール、こちらは思うところあって電話にした。
いくら言葉を選んでしたためても、メールで相手の様子までは分からないもの。
こと、狭心症がどうこうと聞いていたので、声を聞いてみるかと相成った。
弱っていたり動揺していたりすれば声だけでもある程度は分かる。
まあ母は気丈な人なので巧く見栄を張って隠してしまうかもしれないが。
幸いこちらがすぐぴんと来るほどの不調ではないようだった。
電話という道具を使うと相手の「いま」に露骨に割り込んでしまう。
「今お時間よろしいでしょうか」と尋ねるのがせいぜいなので、普段は使っていない。
むしろ着信するだけで逃げ出したくなるほど苦手というほうが正しいぐらいだ。
反面、文字には起こしにくいような四方山話をしやすくなる性質もある。
対面での会話には及ばないながら、声色で相手の機嫌が多少は分かるからだろうか。
田舎は静かなので背景音に情報が載ってきたりはしない。
何か聞こえるようならそちらに気が行くぐらいだ。
無選別の情報には複数の受け取りようがあるものだと気付かされる。
自分が伝えたいと思った言葉の羅列だけで構成されるメールとは大違いだ。
メールでは相手の特定の時間を奪わない代わり、内容が一方的になる。
反応に合わせて話題を変えるのも返信の返信となるため即時にとはいかない。
誤解を避け相手の感情を害さないためには、より細心の注意を要するということか。
とは言え一方的に書ける上、送信前には推敲することもできる。
気をつければ最低限どうにかすることはできるだろう。
たいていの場合、一対一なのだから。
と、ここまで振り返ってみて、急についったーが怖くなってきた。
誰にどころか何人に宛てているのか読まれているのかも分からない。
画像を添えることもできるが、変造されない保証はない。
しかも、この日記などと違って、自分では制御できない「場の流れ」が存在する。
「場」の見え方、捉え方は読む人によって文字通り千差万別。
そこに筆跡も声色もないむき出しの言葉を一方的に放り込んでいるのだ。
しかし、むき出しの言葉でも温かい人柄が伝わって来ることもある。
この人とは仲良くなれそうだと思えることはもっとある。
何がそうさせているのだろう。
自分にもできているのだろうか。

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