ついったーの話題。
字幕翻訳をしている人が、登録してから5年も経つ会社に声を掛けられた。
・露骨に学生の尻ぬぐいと言っている
・大量で短納期
・他社での通常料金を提示したら渋られる
という、見るだに黒い案件。
しかしその引き合いの時点で、彼女は引き受けようか少しだけ迷っていたらしい。
「皆さんならどうしますか」と呼びかけがあった。
私はすぐさま反応して「私なら断ります」と書き込んだのだが、他の人はどう考えるのか気になった。
すると、続く2~3人も同様の反応。
「翻訳の相場を破壊したくないので断ります」との書き込みを見て安心。
願わくばそういう人が多くいてほしい。
決して不当に高い料金をむしり取れというのではないし、そんなことはこのご時世ほぼ無理だ。
ただ、せめて、不当に安い料金で翻訳を提供しないでほしいと願うのみ。
・安くて低品質→客先が品質に期待してくれなくなる
・安くて高品質→相場が崩壊する
正直なところ、品質に期待しなくてよいのであれば日本人が和訳をする必要もないと思っている。
そうなると、特に中国語の場合、翻訳料金は簡単に倍以上も安くなる。
日本人として自然に感じる文章という品質の提供が、日本人翻訳者の価値であるはず。
分かればいい、という程度なら今日び自動翻訳でも結構いけるのだ。
なので、私が恐れているのは「分かればいい」水準を求める客先が増えていくことだ。
何だか自分が古くて狭量な人間のように感じてしまうが、否定はできない。
結局、件の彼女は再打診を受けたときに断ったという。拍手。
夜になって、違う方面からまた気になる「つぶやき」が入ってきた。
日本語が絡む翻訳は日本人にしか発注しないよう規制を望み、働きかける人がいるという。
それはいくらなんでもおかしい。
和訳ならまだしも、外国語訳を日本人がするべき理由は特にないはずだ。
しかも競争で仕事を勝ち取るならまだしも、競争を自ら阻害するという発想が信じがたい。
本質的に国際業務であるはずの翻訳で食う人間が鎖国してどうするの。
既定の休日がない
この年にもなって自分で遊びにも行けないとは不甲斐ない。
自由業でありながら日程の自由が利かない。
中国の5月連休が4/30~5/4だと聞いたので早速どこか出かけようかと思ったが遅かった。
日本の人々は既に5月連休の行楽を確定してしまっているらしい。
わざわざ混んで高い日に出かけてどうするの、とダンナが言うのも尤もだ。
「そうじゃない選択」ができてこその自由業冥利なのに。
このところ自分を縛っているのは例の朝刊翻訳なのだが、休みが取れない訳ではない。
一日や二日、休んだところで屋台骨が揺らぐようなものでもない。
ただ、確約している仕事をキャンセルしてまで遊びに行くほどの主体性がないのだ。
それで愚痴を連ねているだけでは何も前に進みはしないことぐらい分かっている。
ただ、受け身になってしまっている今の自分を直視するため書いているのもまた事実。
もっと自分から仕事も私事もしなければ、とはよく思っているのだが。
それにしても翻訳の仕事なんてどうやって取ってくればよいのだろう。
やる気がほしい
やる気がなくとも仕事を進めることはできるのだが。
喜んで引き受けたはずの仕事がなかなか進められない。
訳文は思いつくし、手も動くのだが、何故か気が乗らないで今に至る。
用事やら雑音やらで気が散るというのではない。
集中に適した環境を作り込んでも、何故かやる気が出ない。
困ってもよさそうなところだが、納期に余裕があるので困ってもいない。
何となく不健全というか罪悪感に似た何かを感じるのだが、実害はなかったりする。
たまには自分を甘やかしてのんびりしても許されるだろうか(誰に)。
偏愛マップ
だいぶ昔に買った本だが、偏愛マップなる交際術が改めて面白いと思うようになった。
偏愛マップというのは、平たく言うと「自分の好きなものを何でも紙に書き出してみよう」という自己分析手法のようなもの。
・まず「好きなもの」を並べる
・たくさんある「好きなもの」から自分の考えや性格が見えてくる
・他人とも共通する「好きなもの」が見つけられれば距離は簡単に縮められる
といった感じのごく分かりやすい説明で、読んだ当初は「まさかここまで簡単なはずは」と思っていた。
が、最近ついったーを初めてみて「好きなもの」の強さが実感できてきた次第。
鳥が好きだ(特にインコ)という一点でつながっている人が予想(期待)よりずっと増えたのだ。
所在地も職業もばらばら(しかも嘘か本当かも分からない)、でも共通の話題で盛り上がれる。
さらにインコとまるで関係ない話さえ、さながら友人のように話し合えることも。
一昔前「他人様のいいところを探しなさい」といった教えをどこからか(たぶん新書)浴びせられたが、その苦行にはまるでついて行けなかった。
しかし「自分の好きなものを晒しなさい」は思ったよりずっと簡単で、効果的だ。
ちょっとだけ友達が作れるようになってきた気がする。
上品な人
義母は非常に品がよい。そのおかげかダンナも上品な感じがする。
結婚当初、うかつにそれを従姉に自慢したら「アンタが気をつける方でしょ!」と怒られた。
#当たり前だ。今(と言うより発言した直後)ならその愚かさが分かる。
色々と四方山話をするようになって、家族の歴史もそこそこ聴いた。
それでも彼女が上品である背景につながる情報は得られていない。
目を見張るほどの家柄だった訳でなし、厳格な躾があった風でもない。
#集まった親族の面々を見て想像。
どのあたりが上品なのかというと、決して人を悪く言わないこと。苦情に感情を込めないこと。
こう並べてしまうと簡単そうだが見習うのは大変だ。
口が悪い文化圏で育ってしまったらしいヨメには特に前者が難しい。
義母は人を悪く言わないだけでなく、しょうもない愚痴をこぼすこともない。
「そんなこと言っても解決にならないでしょ?」と静かに微笑む。
……どこかで聞いたような、と思っていたらダンナの言動にそんなのがあった。
「そんなこと言っても誰も幸せにならないでしょ?」
それはそうだ。あなた方は正しい。ご無理ごもっとも!と泣きそうになることさえある。
家族なのに愚痴一つこぼせないのかよ、と……
脳裏をよぎる「ラポート・トーク(感情の共有)とリポート・トーク(情報の共有)」。
前者が拒絶されているように感じてしまうのは悲観的な性格のせいだろうか。
読みにくい新聞
数年前から新聞各紙の文字が大きくなったそうだが、読みにくくなったという印象しかない。
記事がぶつ切りで「関連記事は○面」「続きは○ページ」といった参照指示の入ることがしばしば。
しかも参照先ページを見てもやはり記事はぶつ切りなので、続きを探すのに手間暇がかかる。
内容を読みにくくしてまで字を大きくする意義が分からない。
字が細かくても平気な私だけでなく、親世代の人々も読みにくくなったとこぼしている。
恐らく中の人はものすごく精密なパズルを組んで日々の紙面を設計しているのだろうと思う。
人ではなく優秀なプログラムか何かがこなしているのかもしれない(全く分からない)。
いずれにせよ、勇気を出して元に戻す新聞があったらそれなりに人気が出るのではと思ってしまう。
勿論そういう意味での読みやすさ分かりやすさを最大の売りとする商品性で。
……と書いて無性にむなしくなったのは何故だ。
愛読書は辞書だった
何故か昔から小説の類が苦手なので、私の本棚は参考書だらけだ。
翻訳領域が多岐に渡るので、高校の教科書類は手放せず重宝している。
実際には習わなかった生物や地学の教科書も、運良くもらいものにありつけた。
そういうわけで?見る頻度が最も高い参考書は高校の理科の教科書だったりするのだが、辞書もたくさんある。
留学中その価格差に味を占めた私は、中国語がらみの辞書は日本では買っていない。
小学館の中日辞典は大学に入ってすぐ買ったものだが、他は中華圏で仕入れてきたものだ。
ただ翻訳参考用の辞書はほとんどが対訳用語集のようなもので、あまり参考情報が載っていない。
語義の詳しい解釈やら囲み記事やらを読むのが好きな私には寂しい限りである。
電子辞書だと周辺の情報が視界に入らないので云々という話を見聞きしたことがあるが、
それより「検索しないと読めない」ので読むに適さない、という方が私には寂しい。
ただ検索するだけならこちらのほうが早いので私も持ってはいるが。
小学生の頃、よく授業中に辞書を読んでいた。
最初に与えられた小学館の国語と漢和は5周ぐらいずつは読んだと思う。
漢和辞書は特に言葉の出典などがあるため「読み物として」面白かったのを覚えている。
その習慣のせいか辞書を引くのも他人様より速いのがささやかな自慢だった。
……それが今や索引の位置すら忘れている。とほほ。
喋れないのは喋らないから
国際電話がかかってきた。
用件は想像が付いていたのでまあ会話にはなったかと思うのだが、やはり会話は苦手だ。
ことに電話となると「雑音」やら「声が遠い」やら、言語能力と別のところで神経を使う。
あるいは電話も慣れれば平気になる代物かもしれない。
そこでふと思った。いわゆる普通の日本人が「英語を話せない」理由は日常生活にないからでは?
会話する(聞き取る、発話する、話の流れを考えるを含め)相手がいない日常で、喋れるようになるか?
そう言えば2ちゃんねるでは、日本語すら緊張やら恐怖心やらで話せないという会話がなされている。
そう、言語的に会話が成り立たないのではなく、声に出す発話ができない人々もいるということだ。
見た目はいわゆる健常者でも、だ。
出所が出所だけに話半分と思いたいところだが、あまり長いこと声を出していないと声は出しにくくなるのだという。
曲がりなりにも文の読み書きならできる日本語であれ、声が出せなければ話せない。
まして読み書きの機会すら日常的にないような外国語を話せる人などむしろ珍しいのではないか。
話せる人は当該言語の使い手やら視聴覚教材やらと主体的に接触している人に限られるような気がする。
つまり、受動的な性格の人は外国語会話などおぼつかない。
昔は「言葉なんて留学すれば厭でもできるようになる」と言われていたが、今やたいていの国では生活が便利になりすぎて、そうでもなくなっているのではとすら思う。
そうなると、会話力が欲しいと思ったら、当該言語の使い手と交遊するぐらいしか現実的な手はなさそうに見えてきた。
……ここで友達を作るのが大の苦手という性格が災難する。
口が臭い人=年収が低い人?
実在する誰かの陰口ではなく。
よく目にするネット広告の「びっくりしている若い女性」の顔がどれも同じだということ。
うがいした水を吐き出してびっくりの顔と、年収査定を見てびっくりの顔は同じか?
表情として同じどころではなく、同一の写真を使用していると思われる。
いわゆる写真素材に含まれているのだろうということは簡単に想像できるが、いいのかなそれ。
恐らく彼女はそんなことに使われることを想定の上で撮影を希望した人ではないと思う。
あまりに分かりやすい驚きの表情なので、その顔を覚えている他人は相当数いるのではないか。
そして「口が臭い人」ないし「年収が低い人」と思いこんでいる人も……
私はモデルになれる/されるような容姿をしていないが、そのことに一種の感謝さえ覚える。
幽霊が成仏できるのは日本だけ?
英語と中国語しか読めないが、幽霊が化けて出ることに未練なんて意味があるのはどうも日本だけらしい。
そして日本では、未練がなくなった幽霊は成仏できる。
が、成仏の英訳を見ると「die in piece」、「enter nirvana 」、「attain Buddhahood」
中国語では「死」、「昇天」
いずれにしても生きている人にしかできそうにない。(死人が死ぬのは無理すぎる)
死んでも仏になれないことは一応あるらしいが、駆除やら退散やらの対象にしかならない。
供養とかで成仏させてもらえることはなさそう。
ってことは日本で徐霊してくれるとかいう人と海外のエクソシストなる人々は別の職種?