彼岸を過ぎて狂ったような暑さも鎮まり、ふと過ぎた夏を振り返る。
この夏は、自分にありえないほど、たくさん外出して人と会った。
お会いして話をしてきたのは、主に同業の方々。
個人翻訳者はその定義からして同僚を持ち得ないのだが、皆さん同僚と言っていいのではと思う。
こちらから一方的には、仲間だと思いこんでいるのだが。
仕事をすればするほど部屋に籠もってしまい、通勤先がないので他人と全く会わない生活。
不自然だとは思いつつも、春頃までの三年ほど、そんな日々が続いていた。
ダンナとすら食事中ぐらいしか会話もしないし、外を見てこないので話題すらない。
日本語の鮮度が落ちそうだと危惧しつつも、ここで日記を書くぐらいしか対策してこなかった。
その延長でついったーに指を伸ばしてから、何かがいつの間にか変わってこんなことに。
我ながら鈍いのか全く気づいていなかったが、似たような状況にいる人は結構いたのだ。
業種や業態が同じなのだから、似たような生活を送っていてもおかしくはない。
しかし、何度か出た単発セミナーの交流会では、こんな気持ちになったことはなかった。
仲間がいる。
孤独と翻訳業と自由を抱えながら、前向きに歩いている仲間がいる。
それぞれが持つ孤独は、由来も質も違う。だが、どこかしら共鳴するものがある。
それぞれが請ける仕事は、言語も分野も違う。それでも、同じことを悩むことがある。
それぞれが手にする自由は、一見どこも重ならない。それでいて、どこかしら重なり合う。
話題を共有して分かったこと、場を共有して気づいたこと。
それもきっと各人ばらばらなのだが、私の場合、敢えて言語化すれば心強さだ。
(敢えて言語化したところで何が切り落とされたのかは自由にご想像いただきたい)
皆さんにお会いするまで得られなかった感覚であるとは断言できる。