表現

何かを表現することは、別の何かを表現しないことである。
大学で習ったのか翻訳スクールで出てきたのか思い出せないが、時々ふと思い出す言葉だ。
文字であれ映像であれ、一度にいくつものことは伝わらない。
まして、どのように伝わるかは受け取り手によっても変わってしまう。
翻訳仕事では特に、このことを念頭に置いて言葉を選ぶことにしている。
できるだけ、異なる解釈のしようがないように。
そして、できるだけ、自分が素直に原文を解釈するように。
ここで言う「素直に」は「鵜呑みにして」ではない。
翻訳は他人の言葉を他人に中継する仕事ゆえに、自分も受け取り手の一人である。
ぱっと見て発話者が何を言っているのかは、語学力の範疇で解釈する。
そこから先の「実は何を言いたいのか」が、私の存在(介在)意義なのではなかろうか。
場合によっては訳出しないほうがよい箇所も出てくるのだ。
単純な原文のミスや言語の性質によって内容が重複するとき。
文書の目的としてそぐわない内容のとき。
勿論この場合は申し送りを付けて翻訳会社の判断を仰ぐが、実績として却下されたことはない。

そういう仕事柄、元々の性格とどちらが先か判別不能だが、普段から言葉を選ぶ傾向が強いことは確かだ。
それでも時には間違うだろうし、意図しない受け取り方をされる可能性は否定できない。
冒頭にも記したとおり、表現できるものは捨象の結果だからだ。
字面ではなく、捨象する内容が不適切だと傷はより深くなる。
肝心なのは、その時/それからどう対応するかではと思う。
原因が何であれ、誤解は放置しておきたくない。
一度の失敗が取り返せなくては、余りに哀しいからだ。
どうにかなる/できる可能性のあることを放置して後悔するのは御免だ。
こちらで招いた事態でありながら一方的にも程があるとは思うが。
自分の意思さえ満足に伝えられないようでは…。
できる限り誤解を避けるべく補足しておくと、この記事で自分を含む誰をも責めるつもりはない。
…などという内言はさらりと文脈に埋め込めるようになりたいものだが。

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