希薄な自覚

とある大学院の資料一式をもらった。
入試問題も過去2年分ある。
中国語専攻の入試問題は中国言語文化、中国語、英語の3問だった。
うち英語のみ辞書の持ち込み可(電子辞書は不可)とある。


どれほど知識や学力が求められるものかと固唾を呑んで開いた。
え、あれ、それだけ?
言語文化については知識を問われる問題だったが、中国語も英語も和訳のみだった。
中国語問題は辞書の利用を禁止されているのだが、何も調べる必要を感じない。
この大学院は満点でないと採らないのか?
大卒にその程度しか求めていないのか?
自分に外語大卒レベルの読解力があるのか?と思い至ったところで我に返った。
そう言えば自分は中文和訳のプロなのだった。
専攻が中国語でなくとも、滞在歴が半年もなくとも、実務経験がある。
何を学ぼうとしていたのだろうかと逆に考え込んでしまった。
今の時点で生活しうるだけの仕事にありついている事実。
そこに時間的、機会上の制約をかけてまで、何を学びたかったのだろう?
まして学部ならまだしも、院となると主体的な研究の場。
環境が整っていて指導教官がついてくれるというだけで、受け身では何も始まらない。
何か始めたいから受検というのは間違っている気がしてきた。
まだ正解は分からないので、模索は続く。

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