自分にこれ以上の入力効率は要らない気がしてきた。
そもそも人様と競う必要はないし、そのつもりも毛頭ないが。
日本語文の入力が速いことは必ずしも訳文のそれと等価ではないことに気づいたのだ。
私の仕事は専ら和訳なので、入力する訳文はもちろん日本語である。
手指の負荷を減らすべく変換辞書の調整なども一通りはした。
ATOKの省入力機能で助けられているところもかなりある。
ただ、これ以上は日本語入力が速くなっても訳文作成に直結しないと感じたのだ。
恐らく人によると思うが、入力中に目は原文のおさらいをしている。
思いついた訳文を入力しつつ、文の流れをつかみ直して随時反映するためだ。
あまり入力を効率化すると、この「流れを判断してから反映させるまで」の間が取れない。
反芻してみると、自分は「ながら入力」をしていたことになる。
一方で、入力効率を意識すると、いったん入力に集中せざるを得ない。
それでも十分おつりが来る技能もあろうし、使いこなせる御仁もあろうかとは思う。
ただ自分の場合、この僅かな意識の切り替えが気になってならないのだ。
気になっているということは集中できていないということであり、効率は下がっている。
むしろ単文節変換だけでがしゃがしゃやっていたほうが訳出速度は出ていた。
考えるためにいちいち止まりたくない、というわがままに尽きると思う。
同業の諸兄には噴飯ものかとは思うが、まあそういういきものなので致し方ない。