授業の感想ではあるが、本筋から逸れるので別項としておく。
日中訳を見ていると、やはり中国語話者には敵わないものがある。
中国語としての出来のよさは、数多の中国語を読んできただけに分かるつもりだ。
その逆が(和訳で)できているかはさておき、そうではない視点に思い当たった。
母語だから上手く書ける、よりも、他言語だから客観的に読める、のではなかろうか。
日本語には重文やねじれ構文がある。
指摘されれば分かるが、普段はそうしたことが意識に上らない。
いざ訳そうと思ったときにだけ、分解整理の過程で見えてくるものだ。
日本語を他言語として見ている人々には、分解整理がより日常的なのではなかろうか。
内容理解の必要上、形式のずれも意識して、考えて、飲み込むのだろう。
異郷で暮らす人々は常に、頭のどこかで、自分のために翻訳している。
それを他者のためにできるか、が業としての価値か。
だからこそ自分は和訳を究めたほうがいいのかもしれない。
外からのほうがよく見える中国語の癖や構えを同様に(逆方向に)処理できるから。
そこから先の訳文の巧拙は、作文力や表現力と呼ばれるもの。
用途や目的に照らしてどうあるべきか、は、少なくとも語学力ではない。
違うものは違うと認識した上で、そこをつなぐ仕事に翻訳の付加価値を感じる。
いずれにせよ、もっと丁寧に考える習慣を身につけないと。