ブログは賃貸住宅、ついったーは街の広場のようなものだと思っている。
フェイスブックはもう少し社交的な側面が強く、駅に近かったかもしれない。
過去形にしたのは、「そこでの自分の存在」を過去にしたためである。
社会を構成する一員として当然かもしれないが、場を考えると言えないこともある。
どういう立場(自分との関係)の人が見るかによって、受ける印象も違うだろう。
願わくば誰も傷つけたくないし、無用な心配はかけたくない。
「あの人が見ている可能性」を慮るあまり、楽しかった一日の記録さえ取れない。
窮屈に感じる一方で、公開範囲の限定には食指が動かないのも事実だ。
誰になら見せたいのかと自問すると、結局のところいない。
特定の誰かとだけ共有したい話題であれば、手紙なりメールなりを選ぶ。
その「誰か」が複数になる場合がどうも想定できないのだ。
もっと社会性のある人ならそつなく設定できるものなのだろうか。
どうしてたかが「迂闊な日常」で社会性を心配するはめに陥るのだろうか。
独りで生きているわけではないから、ということは分かっている。
利害関係のあちらにいる人、こちらにいてくれる人、そういう相手ではない人。
心配してくれる人、隙を窺っている人、何かしら自分のものにしようとする人。
他山の石と思ってくれる人、嘲笑する人、哀れんでくれる人。
そしてそのどれでもない、何もなければ素通りする人。
どうしてほしいというわけでもない。
ただ、気に掛けてくれる人には、日々こうして過ごしています、とだけ伝えたい。
そこに何らかの価値があるのかは、目にした人が判断することだ。
たかが日記やつぶやきでも、発言を公開するというのはそういうことだろう。
苦言だってもらえるのなら聴きたい。
ただ、いたずらに他人様の不快感をあおることだけはしたくない。
これだけ暗い話ばかり書いていて矛盾もいいところなのだが。
厭なら見ないで、とも常に思っている。
きっと誰にも、こんなものを見る必要はない。