追悼

実家のインコ、享年25。
兄の飼い鳥として迎えられたが、兄よりも私よりも長く両親と暮らしていた。
野良猫に掘り返されないよう、深い穴に埋葬されたそうだ。


彼がやって来たのは昭和の末。消費税もインターネットもなかった。
覚えているのは「円高還元セール インドオーム3500円」という紙の値札のみ。
ガラス水槽に10羽ほど雛がぎゅう詰めになって売られていた。
手乗りセキセイインコと同じような待遇だったのだろう。
文鳥が欲しくて探しに行ったホームセンターで、何故か出会ってしまった。
子供ながら一週間ほど悩んだ末、また会いに行くと、人懐こく寄ってくる。
「かうー」と甘えた声で鳴かれたのにやられ、兄の「文鳥」として迎え入れることに。
見たこともない鳥で、飼育法も店員すら分からない始末。
ともあれ雛なのだから、と母がセキセイインコの巣引き経験を元に世話を主導した。
オウム籠はキバタンを飼っていた親戚から譲り受けたが、しばらくして新調。
田舎では手に入らないのでホームセンターに頼み取り寄せてもらった。
挿し餌していた粟玉を急に食べなくなった時は家族みんなが焦った。
何かのスイッチが切り替わったように、スプーンを見ようともしない。
ヒマワリを与えれば食べることに気づき一安心、殻剥きは私も手伝った。
自分で剥けるようになるまで、先住鳥ボタンインコまで総動員。
ほどなく自分で「手で持って」割って食べられるようになると、人語も覚えはじめた。
歴代の鳥よりずっと大きかったので命名は「大ちゃん」。
しかし何故か自ら「ダイコちゃん」と言い出してそちらが名前になった。
いつの間にやら母が「ぶうちゃん」と、私は勝手に「ぶうきち」と呼んでいた。
オオホンセイという鳥種だと知ったのは兄が大学に進んでから。
どうやら本来は過酷な環境で暮らすどう猛な害鳥らしい。
でも彼は違った。
こまが籠の上に止まっても攻撃しない、本当に穏やかで優しい子だった。
「手で持って」食べる姿が面白いので、色々おやつを貰っていた。
現代的な飼育知識のある人には怒られたり卒倒されたりしそうだが、好物は金平糖。
果物類もほとんど食べたが、美味しくないと放り投げるので徒名は「糖度計」。
母の友人など「ダイコちゃんにあげて」と土産をくれる客人までいた。
兄と私が進学で実家を離れ、家そのものも完全解体してから建て直し。
両親と仮住まいを経験しながら、ずっと居間の特等席に陣取っていた。
離れて暮らしていても家族は他人と識別できるらしく、玄関に立てば「ただいま」。
「おかえり」も言えたが、何故か兄にしか言わなかった。
実家を出るまでずっとまじめに世話をしていた飼い主を見ていたのだろうか。
家族と仲が良い来客のときはおとなしくなり、そうでないとけたたましく鳴いた。
人間達が話に熱中してしまうと、自分もと奇妙な合いの手を入れてきた。
母が家を空けてしまうと、帰宅時に何時間も呼び鳴きしてやまなかった。
ここに転がっている薄情者なんかより、ずっと人間らしかった。
2度の震度6強にも耐えた。
ガソリン供給が中断されている中、母はリュック一つでひまわりを買いに出たそうだ。
何度か体調を崩し獣医にかかったこともあるが、「これは何という鳥ですか」。
それでもビタミン剤と母の世話だけで持ち直したのは何年前だろう。
人間の食べ物を与えすぎて身体に悪かったのだろうという心当たりはある。
さりとて小さい頃から与えていたものを取り上げはしない、というのが結論だった。
寿命は縮むかもしれないが、その分ちゃんと楽しませてやろうと。
立派に家族だった。
合掌。

“追悼” への4件の返信

  1. 謹んでお悔やみ申しあげます。
    見ず知らずの(鳥飼でさえない)私の心にも響く、
    心のこもった追悼文を読ませて頂きました。
    ありがとうございました。

  2. べんがらさん>
    ただのつぶやきなのに恐縮です。何年も一緒にいれば、鳥でも家族だと思います。

  3. 立派にご家族の一員だったことが見て取るように分かります。
    それとふわもこさんの深い鳥愛が感じられるエントリ。
    一気に読み切りました。

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