見えてきたもの

「あー、試練の年なんだねー。あるよそういうこと」先輩は涼やかに笑った。
翻訳の仕事をもらえるようになって10年も経つが、まだまだ初めての経験だらけだ。
思い込みや決めつけで視野を狭めたくはないものの、流儀はできてきた気がする。


仕事との向き合い方、人との向き合い方に流儀とは大袈裟かも知れない。
ただ、自分ならばこうする、自分だからこうするという方針は重要だと感じるのだ。
大量の他人様の訳文を通読して「自分ならばこうしない」と思ったことが多々あった。
それまで欠けていたことに気付かされ、取り込む気になった視点もいくつかある。
一般的でないと思われる事象についての注釈の扱いは、出版ものなら重要だろう。
どこまでが一般的にありうると判断されるかの事例は参考になった。
また、「最低限の」校正を入れる難しさも初めての経験である。
換骨奪胎せず、「自分の言葉」を入れず文を直すのはかくも難しいものか。
所謂てにをは程度ならまだしも、論理の修正を要する問題には頭をひねった。
何かの縁で人にものを教えることになったら生きてくるところだろう。
反面、序盤ばかり作り込みに力が入って終盤に減速の跡が見えるのは容認できない。
自分なら同じ調子で訳出しようとするし、同じ調子に仕上げてから提出している。
注釈もなく前後のページで用語の解釈を変えている箇所にも引っかかった。
調べてみたところ、解釈を変えるべき根拠は見当たらない。
恐らく「訳揺れ」と指摘される問題はこうした姿で浮上するのだろう。
人との接し方については一定の解を見出すにも至ってはいない。
苦手なままでもよくないかと思って無理に顔を出しても、無理は無理のようだ。
代わりがいくらでもいることは仕事だけでも分かっている。
非営利の場でまでそんな思いをしても、さしたる収穫が得られないことを学んだ。
また、敬意は一方的に持てない性分のようだ。
狭量なのか甘えなのか分からないが、相手にも求めてしまう。
ごく最低限、「こんにちは」を返して欲しいだけだったのだが。
誰が悪いというのではない。自分がその場にそぐわなかったまで。
選択肢がないなら選ばないのが正解ということか。

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