慰める奴はそもそもいない

幸か不幸か歌詞の翻訳をした経験はないが、かなり難しいのではなかろうか。
ただでさえ言語が変われば同一の意味内容で音節数が変わる。
しかも日本語は「最後まで聞かないと意味が分からない」。
歌詞のように旋律の都合で間が空いてしまう場合、区切りを変える必要もありそうだ。
更に、言語の性質上、情報量の調整も要る場合がある。
そんなことは(散文であっても)当然と認識しておいでの方は多かろう。
ただ、その目を他人でなく自分の手元に向けることができるか。
できている証明を訳文だけでできるか。
恐らくそこに「語学のできる人」との差が出てくる。


例えば、Xの『紅』には日本語版英語版があるが、
「紅に染まったこの俺を慰める奴はもういない」
は曲の都合上「俺を」と「慰める」の間に大きな(4小節の)区切りが入る。
日本語では素直に「俺」の描写だと受け取って追いかければ良いが、
述語が最後に来ない言語ではどうなるか。
同曲の英語版では、
“My heart has been gonnna dye deep red with all of pain
There’s no one to cure my pain only with out you”
の主語を異にする2文となっている。
しかも、「紅に染まっ」ているのは「俺」ではなく”My heart”その心であり、
「慰める」対象も「俺」ではなく”my pain”その痛みである。
※だから逆翻訳などするものではない
赤くなったからと言って慰めてもらえる道理などそもそもないのだ。
しかし日本語文化では何故か/敢えてそこを気にしない。
気にはしないのだが、意味はどこかで通じている。
上記の処理はその「どこかで」を明文化する解釈の一例というわけだ。
機械翻訳の精度が向上してきて需要がそちらに向かっている話も見聞きするが、
こうした解釈ないしその付随処理は当面プロの仕事として残るだろう。
それこそ韻文に限った話ではなく。

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