訳せば終わりか

多忙なのは有り難い限りだが、切なくなる案件に連続で当たった。
訳出された日本語文が、日本人にとって意味をなさない。
中国にいる人向けの説明は日本語にしたところで日本にいる人の方を向きはしない。


1文字いくらで請け負う商売、そこまでの責任はないのかもしれない。
あったところで背負いようもないのだが。
しれっと訳して終わることもできたろうが、気が済まないので申し送った。
文書の提供主体まで伝わって対応してもらえるといいが。
かたや、つながりようのない電話番号。
見るからに日本国内の番号ではないが、国番号も市外局番もない。
表紙にお飾りで載せるだけならご愛敬かもしれないが、本文に載っている。
しかもご丁寧に「お問い合わせの前にメモのご用意を」。
中国国内で(原文を)読む分には全く不足のない丁寧な文なのだ。
それでも、日本で日本語版を読むであろう人には役に立たない。
よりによって本文に記載のない複雑な/個別の事象についての連絡先なのにだ。
かたや、換骨奪胎ですでに利用できない営業案内。
住所と看板(の一部)は合っているが、業態変更とやらで内容はもはや別物。
この案内を目に期待した人が同店を訪れたら失望するだろう。
あると書かれているサービスが残っていないのだから。
それでも読者はそんな事情を知るよしはない。
日本語版しか知らない人はその書類がおかしいと思うだろう。
他言語版も見た人には日本語版の間違いないし不足に見えるはずだ。
純粋に読者の視点に立てば、「その文は間違っている」。
末端翻訳者個人としては、訳せば終わり。終わるしかない。
せいぜい気になった点を発注元に申し送るぐらいだ。
訳そのものに関わる苦情は甘んじて受けるし無償対応も辞さない。
いかんせん、内容はどうしようもない。
お金をくれるのは発注元であり発信元なのだが、もう少し何かできないものか。
自分のごとき末端が読者のために訳したいというのは高慢なのだろうか。

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