寛容が怖い

人工知能の進化で自動翻訳の精度も上がり、すわ失職かとかいう話を見聞きする。
その可能性も否定はしないが、開発コストが下がるまでは脅威にならないと思っている。


怖いのは自動翻訳の出力を売る人々ではなく、買ってあげる寛容な人々だ。
現にMicrosoftのヘルプには自動翻訳が採用されて久しいが、引っかかるものがある。
最低限の意味さえ分かれば読みづらさは我慢するしかない状況だ。
それでもたいした騒ぎに発展しないのは、そもそもの読者が少ないからだろうか。
ヘルプを照会できるぐらいの人にはある程度の前提知識が期待されている気がする。
前提知識があれば、文が不自然でも論理の流れから「正しく」解釈することもできよう。
まあ解決の可否が分かればそれでよし、と妥協する寛容さも期待されてはいまいか。
自動翻訳に慣らされて不自然な日本語に染まる云々の話を昔どこぞのセミナーで聞いた。
普段から接していると「毒されて」「自分の」日本語力が「低下する」とかいうお説だ。
プロたるものそれじゃいかん、とセミナーは続くがここではひとまず措く。
むしろ高度な概念レベルでの解釈を要する「お察しください」の問題ではなかろうか。
前世紀パソコンがエラー停止してデータが壊れても「またか」と「許し」ていたように。
要はそもそも品質を期待していないから怒りもしないということだ。
その「寛容さ」を多くの人が身につけていくほうが下請け業者としてはよほど怖い。
やはり読みやすい日本語を、という方が「人間」に発注する流れになっていよう。
そこにもソーシャルだかクラウドだかいう価格破壊の壁が築かれつつある。
乱暴に言えば精査の手間がかからない分だけ安いというサービスだ。
そんな事情を堂々と謳うサービスは寡聞にして知らないが。
機械(自動翻訳)より多少まし、ぐらいの期待値の人がそちらに流れるだけならいい。
問題はその訳文がなお不自然なとき、「人間」に対する期待値ごと下がることだ。
精査を経た人間の訳文をさらに別の人間が精査したもの、は安売りはできない。
安売りされているものにそれを期待されては困るということだ。
半端に寛容で半端に厳しいのも、こちらから見ると過分に厳しい。

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