誰かに届け

大昔の話だが、大学入試の二次試験は英語と小論文だけだった。
どちらも、特に小論文には正解がない。
そもそも問題文が実質一文字だったりしたのだ。
恐らく明らかな誤答もなかったのではないか。
原稿用紙の使い方、誤字脱字、文の構成ぐらいしか客観評価のしようがなかったろうと思う。
つまり事前に対策が打てるのもその程度。
ある意味、努力のし甲斐がない試験だった。
英語のほうは多少とも回答を見直す余地があったものの、小論文は書き上げてしまうと動かせない。
途中からやりなおして書いても一貫性に欠けるだけだ、という判断も働いていた。
正解のない、しかも配点が高い(らしい)問題を前に当時の私が考えたことはただ一つ。
万人受けは目指しても仕方がない、誰かに惚れ込ませよう。
何人かいるであろう評価者のうち一人か二人が「この子は合格だ!」と思ったら私の勝ち。
実際どなたが目を掛けてくださったのかは分からないが、幸いその大学に合格した(以下略)。


何故こんなことを思い出したかと言うと、実はこの判断には汎用性があるのではと思ったからだ。
ついったーでもそう、ブログでもそう。もっと言えば翻訳だってそうではなかろうか。
実務文書は誰が見ても分かりやすいに越したことはないが、実際の対象読者は限られている。
限られている対象に特化して見やすくまとめたほうが、訳文としての評価は高い気がしてならない。
その最たるものが社内文書、社内報。
内輪らしい略語を使っていないと後から言われても、何をか況や。
場合によっては読み手のことなんて全く考えていないであろう原文に遭遇することもある。
そういう時こそ腕の見せ所、用途に照らした訳文をひねり出す作業こそが楽しいものだ。
いかんせん、そういう楽しさは得てして経済的合理性と矛盾するのだが。

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