日本の技術は世界一、なの?

持論のようなものはついったーに出さないことにしている。
どうもここのところ偏った言論空間に見えて仕方がない。
中でも目に付くのが「ものづくり」の素晴らしさ云々。
テレビが焚き付け、週刊誌が拾い、ネットに拡散している模様。
確かに紹介されている個々の事例はすごい。素晴らしい。
しかし褒めそやされているものは得てして個人技だ。
テクニックであってテクノロジーではない。
それでは産業としての強みにはなっていないはずだ。

「うちが欲しいのはテクノロジスト、テクニシャンじゃねえの」
新卒で入った会社の先輩の言葉を思い出す。
その先輩は、私どころでなく英語を苦手にしていた。
それでも「技術者」と言わずカタカナ表現を使った意義は深い。
「技術者」ではあいまいだから、である。
メーカーで言う「技術」は専ら「テクノロジー」だ。
一定水準の製品を安定して生産するための「技術」。
体系化、手順化され、むしろ個人技能への依存度は低い。
聞いた当時は非人間的に響いて抵抗感を覚えていた。
しかし考えてみると会社員は代えが利いてなんぼのもの。
経営の観点からすると当然なのだった。

……なんてことが最早つぶやけない。

場と信仰と運と

ここ半年で有名な寺社をいくつも拝観してきた。
そもそもが不信心なのだが、得られたものがひとつある。
「あれ」は単なる不運だったのだ。

最初の「被害」を認識してから30年では済まない。
しかも断続的に10年ほど、いじめられっ放しだった。
そして「加害者」は複数だった。
今なおどの件の「主犯格」の氏名も諳んじられる。
しかし、やっと、彼らへの処罰感情を手放せた。
自分に残る傷跡には関わらず。

恐らく彼らに加害の記憶はない。
それどころか私が存在したという記憶もないだろう。
単なる子供の気まぐれが思い出にはなるまい。
たまたま出会った蟻を踏み潰したようなものだ。
それがたまたま蟻でなく私だっただけだ。
黒くて些か異質なので目に付いた、ただそれだけ。
その攻撃の動機に恨みも怒りもなかっただろう。
まして「被害者」が法的な訴えも自殺もしなかった。
よって何ら「罪」の「証拠」もない。

思い出しても不快なだけ、忘れろと言うのは易い。
しかし忘れたものは意図せず思い出すこともある。
だから、自ら手放すことに価値がある。
自ら。

恵みも災害ももたらす自然を祀った神社。
救いを求める感情を束ね、寄る辺を作った仏閣。
自分ではどうしようもないことがある。
信仰はそのやるせなさの受け皿なのかもしれない。

社格の高い神社や人里離れた仏閣は空気が違う。
空気が違うからそこに築かれたのだろう。
敬意を形にする場にふさわしい空気。
敢えて記憶をとどめておくに堪える空気。
そこに昔の人々の思いを形にしたものがある。
こうした場はもう新たには作れないのではと思う。
すがる気はないが、それでも救いは感じた。

 

 

引っ越し遍歴

身内には趣味だと笑われるが、引っ越しの理由は都度それなりにある。

独立して半年で都心から関西へ引っ越したのは、大学院が目的だった。
準備室が大阪にあり、キャンパスもその近隣にできる予定だったのだ。
その大学院開設そのものが頓挫したことを知ったのは転居した後。
大学の恩師に尋ねてみたところ、関係者に確認してくれたが。
ともあれ西の実家の近くということもあり、街の居心地はよかった。

4年目の夏、家人が関東へ行こうと言い出した。
彼の作ったサービスで取材の打診が入るようになったからだった。
実際、雑誌やテレビの経済番組などに少しは露出している。
それでもメディア露出には東京(にすぐ出られること)が有利だと。
さりとて「都内にはもう住みたくない」。
東京市部と横浜の郊外を見て回り、秋に横浜の南端へ引っ越した。

横浜の南端は公園もあり海も近く、「いい環境」だった。
麹町には些か遠かったが、半月ほど通うのに支障はなかった。
その上ご近所で、とてもよくしてくれる人にも出会えた。
しかし平穏な日々は1年も続かなかった。
隣の建物から夜な夜な叫び声がしだして、日に日にその時間が延びた。
夜が休めなくとも昼さえ静かなら、と一時期は思っていた。
その昼さえ奪われた。
が、相手が「弱者」なので致し方ない。
家人はできる限りの対応をしてくれたが、それも限界に達した。
「せっかく賃貸なんだから、逃げだそうか」

近所が騒がしいときの逃げ場を確保すべく、横浜の中心部に越した。
ほとんどの用事が徒歩で済む、恐ろしいほど便利な場所だった。
いかんせん、暮らすうち治安が気になりだした。
そこにとどめを刺したのが4年目の猛暑。
物件の制約で仕事部屋に空調がつけられなかったのでばててしまった。
半月ぐらいならば田舎に避暑もできるが、暑さがいつまでも引かない。
「暮らしやすいところに行こうか」

そして神奈川県某所。
日常の用事は徒歩で済み、都心には乗り換えの要らない場所だった。
歩き煙草もなく、車は道を譲ってくれる、安心できる街。
近くこそないが沿線には遊んでくれる先輩もいた。
難点は旅に出にくいことぐらいだった。
それも前の物件が便利すぎたゆえの贅沢に過ぎないのだが。

今回が最も正当性を欠く引っ越しだったかもしれない。
都心への所要時間が悪化しない条件で、帰省しやすい場所へ。
乗り換えが減って東西どちらにも各段に帰りやすくなった。
物件も相対的に新しいので申し分ない。
野菜が安く手に入る。
欲を言えばもう一つぐらい気に入る理由が欲しいところだ。
この街で暮らす必要性は特にないのだから。

コンビニで戸籍抄本

旅券の有効期限が切れたので、新規申請には戸籍抄本が要る。
本籍地の役場に郵送申請すればよいのだが、別の方法を思い出した。
マイナンバーカードがあれば対応コンビニでも申し込めるのである。
定額小為替を買う手間もかからない。
今回は興味本位でコンビニ申請とやらを試してみることにした。
必要な前提条件は3つある。

申請の手順は公的サイトにまとめられている。
「キオスク端末」がマルチコピー機だとさえ分かれば問題ない。
なお、本籍地は運転免許証から読み込むこともできる。
指定された場所に運転免許証を置いて暗証番号を2つ入力するだけ。
実は本籍地がうろ覚えだったのでこの機能はとても助かった。
と言うより運転免許証のIC情報を初めて使った。

現住所地と本籍地が同じ市区町村であればその場で出力できるらしい。
今回は異なるため、本籍地の役場が審査する時間が要るとのこと。
市区町村によって異なるかもしれないが、今回は5日と表示された。
利用登録申請は1回とのことなので、次回以降この待ち時間はなくなる。
つまり申請しておけば随時コンビニで取得できるようになる。
必要なタイミングで出力できるのは地味に便利かもしれない。

ないない尽くし

JTF翻訳祭に初めて講師として参加してきた。
思いつく限りの事前準備で臨んだものの、反省点ばかり記憶に残る。

  • 自己紹介が皆無で自分が何者か伝えられなかった
  • 聴講者層の想定ができていなかった
  • 話の間が持たなかった
  • 会場の積極性を引き出せなかった
  • こうして並べてみるにないない尽くしだ。
    勉強会の発表者すら務めたことがない自分には舞台が大きすぎたのか。
    少し考えれば分かりそうな一番の基本を見落としていたということか。

    時間の都合が付けば聞いたのに、というお声もいくつか頂戴した。
    しかし社交辞令なのか本当なのか、聞き出す勇気も技能もない。
    人と話す力が圧倒的に足りないのだと痛感した次第。

  • 交流パーティーでほとんど名刺交換ができなかった
  • 翻訳とFPどちらで売り込むこともできなかった
  • 何らかの専門家以前に、社会人、人としてなっていない。
    我ながらよくぞここまで生きてこられたものだ。

    人が多いということ

    0泊2日で平泉中尊寺を拝観してきた。
    当初は成田から仙台へ飛んで1泊するつもりで考えていた。
    仙台空港から中尊寺への直行バスがあるのだ。
    しかし成田発の便からの接続が悪く断念。
    新幹線で一ノ関まで行って路線バス乗り換えが順当だろう。
    とは言え朝の混む時間帯に都内へ行くのは避けたい。
    拝観できる時間を見ると、朝8時半から夕方5時。
    もしや夜行バスが使えるのではと考え直してみた。
    仙台から一ノ関への始発は6時。
    一ノ関には7時32分に着き、8時5分には中尊寺へのバスがある。

    ということで6年ぶりに夜行バスを利用した。
    東京のバスターミナルは混雑の極致で待合室にはついに立ち入れず。
    夏休みでもないただの平日なのに、利用客があふれかえっていた。
    予約したバスの到着まで50分ほど立ち尽くす。

    翌朝5時半前の仙台は街がほぼ眠っていた。
    通り沿いのコンビニは営業していても、駅構内では準備中。
    そのへんの事情は調べてあったので朝食は持参したもので済ませた。

    東北本線の下り始発は塩竃あたりまでがらがら、ほぼ通学用らしい。
    車窓から見る松島の朝日も乙なものだった。

    一ノ関でゆっくり時間調整のつもりが勘違いして大失敗。
    何故か8時5分のバスを9分だと信じ込んでいたので見逃してしまった。
    次のバスは55分。
    電車で平泉に向かおうにも55分までない。
    ふとタクシー料金を試算したところ夜でも4000円弱のようだ。
    この時間を買う、と自分に言い聞かせてタクシーを拾うことにした。

    平泉に入ると運転手さんが「あれ分かりますか」と声をかけてきた。
    7-11なのだが、おなじみの配色になっていない。
    セピアと言おうかイカスミ色と言おうか微妙な看板を掲げていた。
    日産の販売店もトヨタL&Fの営業所も同じ色調。
    「派手な色はダメなんですよ」
    ファミリーマートは緑のみ生き残り「水色」部分まで緑だった。

    中尊寺交差点で降車したのが8時半をわずかに過ぎた頃。
    参拝客というよりハイカーのような出で立ちの人がちらほらいた。
    上り坂なので早歩きともいかないが、ほどなく八幡堂。
    弁慶堂から薬師堂から、徒歩1~2分間隔でお堂が建っている。
    仏閣だけで街が出来ているように見えた。
    それぞれの施設の説明書きを読み、手元では遊びつつ本堂へ。
    スマートフォンをしまい帽子を取って拝観した。
    おみくじは大吉。一人旅がよいとのこと。
    金色堂を目指して月見坂に戻ると、売店が開き始めていた。
    参拝客が少ないうちは結構のんびり開店準備をしているらしい。

    無償で拝観できるお堂を回り終えて、いざ拝観券を購入。
    金色堂も讃衡蔵(宝物の保存館)もゆっくり見られた。
    国宝第一号とのことで、保存や修復の努力についても説明があった。
    博物館学をかじっていたので、そのあたりの話も実に面白かった。
    撮影禁止の指示はきちんと守られており、走る人もいなかった。
    中国語はちらほら聞こえたが、説明と質問ばかりで静かなものだ。
    そういう意味でもいい空気を味わえた。

    かなりじっくり見て回り、坂を下り始めたところで団体客と遭遇。
    一気に「拝観」が「観光」の空気に押されてしまった。
    入れ違いでよかった、と深く安堵した。
    坂を下りきって土産物屋で時計を見ると、まだ10時半前。
    人が少なければ、少しの時間でもゆっくりできるものだと驚く。

    予定より早いバスで一ノ関に戻り、酒蔵レストランで昼食。
    時間に余裕があれば酒蔵の見学もしようと思っていた。
    しかし何やら小学校の行事とぶつかったらしく酒蔵の見学は断念した。
    幸か不幸か急ぎ足で駅に戻れば1本(1時間!)早い新幹線に間に合う。
    指定席を変更する余裕がなかったので自由席で帰途についた。

    大失敗をさておいても今回の旅程には改善の余地がある。
    夜行バスより前泊のほうが余裕を持って動けたのではなかろうか。
    余裕があればこそ出かけたはずだったのだが。