タイムトライアル

じっくり良訳を練って提出という翻訳者の方は聞いて呆れるのではなかろうか。
タイムトライアルと呼ぶほかない案件が飛び込んできた。
・原稿到着は9:10過ぎ、納期は同日10:45
・中国語700文字前後
・経済分野(日経NETの株式面と似たノリ)
外部発信用文書なので拙速に出せばいいというものではない。


今回ほど極端ではないものの、短納期案件とてほとんどどれもが「高品質で急げ」である。
「早さ重視で品質は二の次」などという案件は見たことがない。
競合は中国人という環境を考えるに、恐らく品質が二の次でよいならば日本人には回さないのだろう。

冬至なので

冬至と言えば「柚子」と「南瓜」だが、柚子はジャムで毎朝のように食べているため割愛。
「冬至南瓜」用に甘そうな南瓜を買っておいた。
煮付けは他のおかずを選ぶのでスープにしようか、それなら昼でいいねと言っていたまではよかったが。
寝坊で朝食が吹っ飛んだ。
朝昼兼用と称して食べることは食べるのだが、寝起きでスープを作る気になれず「冬至南瓜」を延期。
さりとて冬至は延期できないな、と考えていて「思い出したのが『ん』のつくものを食べる」だった。
結果、我が家の夕飯はチキグラタ
…お後が宜しいようで。

押し売り?

某超大手翻訳会社からWordfastを買えと煽るメールが来た。
年内いっぱいなら優待価格で斡旋するとのことだが、納得がいかない。
要は「うちの会社がTradosからWordfastに乗り換えるから、下請けも買え」ということなのだ。
乗り換えるという案内は半年ほど前にもらっていた気がする。
だがここ半年の受注実績から考えて、個人的にはWordfastを買うに値しないと判断した。
Trados/Wordfast案件どころか中国語案件の引き合いがなかったのだ。
かといって私がこの半年ずっと暇だった訳でもない。
自ずとこの会社(との取引)の重要度は下がる。
問題はここが超のつく大手なだけに、他社が追随して乗り換えるかどうかだ。
「そんなのどこかが追随してからでいいんぢゃない」とダンナに言われ、あっさり納得。


前にも書いたかもしれないが、翻訳支援ツール同士の相性の悪さにはただでさえ辟易している。
一方が必要とするランタイムをもう一方では書き換えろと言ってきたりして、文系ちゃんのレベルでは自分の世話もままならない
#よしんばレベルが十分でも工数がかかって割に合わない。
そもそもランタイム(他社が開発、提供している)を翻訳者個人が探してきて組み込めという態度はどうなのだ、と常々思うのだが皆さんは平気なのだろうか。
ついでに言うと、似たような理由で電子納税システムe-taxとはさらに相性が悪い。
私はどうせ所得税の還付申告しかしないのでe-taxの使用継続を諦めた。


末端の翻訳者が幸せになれるツールってないのかしら。

集まる人々

我がダンナはいわゆるITエンジニアをしている。
IT界隈ではしょっちゅう勉強会やらカンファレンスやらのイベントがあり、業界の人々が交流しているようだ。
翻訳業界と比べて何と交流の機会が多いことか、とよく思っていた。
職人に近い仕事っぷりだったりフリーランスだったりと属性が近いようにも感じられる彼らだが、
情報交換の機会や手段となるとまるで世界が違う。
翻訳者の集うイベントに出るたび、「翻訳者は孤独を好むのかな」と思っていたのだが、むしろ「ITの人々が交流を好む」というほうが妥当なようだ。
特にソフト開発やウェブ製作に携わる人がそういうところへ顔を出しているらしい。
そう言えば「技術者交流会」を検索してもIT以外の話はほとんど出てこない。
(Googleの検索結果5ページ目にやっと他業界関連らしきものが見つかる)
ダンナの話を聞いていると、どうも彼らは同業者である互いをあまり競合相手だと認識していないらしい。
むしろ仕事を融通しあったり依頼しあったりしている。
正直、羨ましい。
仕事の機会うんぬんではなく、仲間がいること、交流の場があることが羨ましい。
私も翻訳関係のイベントがあれば努めて出るようにしているが、どうも疎外感があってならない。
……みんな英語の人。中国語の仕事をしているというだけで珍しがられるか浮いてしまう。
翻訳をしている、という接点だけではなかなか共有できるものがつかめない。
プログラマーとデザイナーほどの差はないはずなのに。
個人的に人間関係の構築が苦手だからこう感じるだけなのだろうか。

アジアな街

先日、西日本セミナーで出会った人に「上海ってパジャマで出歩く人がまだいますよね」と声を掛けられた。
確かにその光景を初めて見たときは私もたいそう驚いたものだが、実は今いる街でも見る光景だ。
「日本なのに……!」と驚いた記憶はある。
意外なほど若い子たちが、パジャマで歩くどころかチャリンコに二人乗りしていたりするのだ。
上海ですらパジャマで歩く若者はいないのに。


そういえば商店街の奥にある「市場」の雰囲気も中華圏のそれに似ている。
やたらごちゃごちゃとしていて照明が少なく、それでいて何だか明るいのだ。
違いはと言えば売り子の年代ぐらいなものか。
値段が表示されていないのにお客も気にせず買い物をしていたり、色々な匂いが混ざっていたり。
ふと「ここで日本語って通じるのかしら」と思ったことすらある。
普通に考えれば日本語しか通じないはずなのだが。

ふゆやすみのじゆうけんきう

特に今が冬休みというわけではないが、手空きなので自由研究?に手をつけている。
ProZでGB規格の経験ありと謳っている手前、依頼がなくとも何本か訳してみようという個人企画。


GBもJISと似たような発行形態で
・特定の版元が出版している
・取り扱い店舗が限られている(明示されているのに売っていなかったりする)
・「規格票」なる薄い冊子に1本ずつ収録(数枚しかなかったりする)
なので、本屋に行けばほいと買えるものではない。
そこで今回は、JISでいう「JISハンドブック」に相当する「标准汇编」を買ってみた。
GBの目録や索引に類するものがよく分からないので、まずは目に付いた「産業用機械の試験機」を購入。
#正しくはお買い物代行サービスで取り寄せた。
色々なことが行き当たりばったりだが、自由研究なので気にしない。
先日規格文の同一性に書いたような経験を積むのが目的なので、分野はあまり問題ではないのだ。
#と書くと英語専業の方々には驚かれ(呆れられ)そうだが
訳しあがり次第、「主な翻訳実績」に題名だけ書いていく予定。
ごく稀にここを見て問い合わせしていただける場合があるので。

鳥っぽい

だいぶ前のことだが、義妹に「おねーちゃんって鳥っぽいよね」と言われた。
「?」という反応をしたら、「その顔とか」が「あんまり大きくない鳥っぽい」のだそうだ。
・喋るとき唇があまり動かない←これは出身地のせい(推定)
・振り返るとき上体が動かず首だけ
・「くるりと」ではなく「かくっと」振り返る
・表情があまり変化しない
自覚している、ないし指摘されて頷ける要素はこんなものだ。
こうして改めて並べてみると、動きや表情が少ないということだろうか。


ついでに、鳥好きなら分かりそうな点。
・眠りが浅い
・ひたすら空気を読む。が、判断は「逃げる」「逃げない」の二択のみ。
・本人は前を向いているつもりでも、あさっての方向を見ているように取られがち。
・人間好きでもないのにヒトケがないところは苦手
・感情は目に出る
・仲間?を見かけると何となく寄っていくが、話しかけるのは苦手

趣味の単語(1)…って続くんかいな

miscellaneous という単語が無意味に好きだ。
響きがmysterious に似ているし、それでいて意味が「雑多な、その他の」だったりする。
何かありそうでいて何もない空っぽさがたまらない。
内向的すぎて学生時代にバンドを組む夢は自滅させてしまった私だが、
今なら間違いなくバンド名はmiscellaneous にすると思う。


#ピアノとベースがちょこっと弾けます。もう持ってませんが。

Tstreamなる代物

某翻訳会社から「明日Tstream指定案件が来るんだけど、できる?」と引き合いがあった。
Tstreamなんて聞いたこともないが、TRADOSの類似品らしい。
聞いたこともないソフトをいきなり本番案件で使うのはリスクが高すぎるので
「対応ファイルが使えないから」と断った。
数時間後「は~いみんな、Tstreamの説明書だよぉ」って……。
どうも同じ対応をした翻訳者が複数いたらしい。


その説明書とやらが示すリンク先を見ると、無料とも有料とも書いていない。
どうも個人翻訳者が使うソフトは課金しないようだ。
それにしても何となくあちこちが怪しいので、ダウンロードする勇気が出ない。
ただでさえこの手のソフトは特定バージョンの.NETだとかJAVAランタイムだとか要求が多くて面倒なのだ。
うっかり新しいものを入れて今の環境が潰れたらという心配がどうしてもぬぐえない。
しかも「Tstream」と入れて検索しても説明文に出会えない。
何かのプログラミング言語で使われている単語らしく、ググれたものではなかった。
そんな名前を付ける時点でちょっと……

この時代の読む力

世間では「リテラシー」とか「情報リテラシー」とか呼ばれる能力がある。
横文字が嫌いなので言い換え表現を見つけたいところだが、仮に「読む力」としてみよう。
とほく昭和のおほん時には、「読む力」は「書いてあることを誤解なく読み取る力」だった気がする。
それが誰でもこうして発言を公表できるこのご時世でも同じように通用するだろうか?
誰もが好きに文を書き殴り、そのまま晒している状態では、目に見える文意が事実とは限らない。
Wikipediaの記述を丸呑みして論文に引用することの是非はよく論じられているが、他の場合でも全く同じことが起きている。
新聞だって誤報だったり意図的な編集による偏りがついていたりする。
それ自体は何紙分か並べてみれば何となく理解することはできるだろうが、一般にそんな暇があるだろうか?

人の発言が本当、事実、真実であるとは限らない。

ある意味では常識かもしれないが、それは本当なのだろうか。
情報の整理、取捨選択、時には実用上の妥協点を探る作業までができて「読む」ことができたことになる。
家庭、学校、(身の回りの)社会のいずれでも教わる機会はなかった気がするのだが、求められている気もする。
情報を「読む力」は実は、その情報そのものを「読む力」ではないのだろうと思えてならない。
一昔前に流行った「空気」、もう少し伝統的に言うところの「行間」を「読む」必要性を感じる。
何ともせちがらいことだ。