再考

出版翻訳講座も半期の折り返し。
久々に和訳の番だった。
「今回(課題の難易度)はどうでしたか」と問われてもいつ解いたかすら記憶にない。


先生が講評と解説をする毎度の流れだが、受講生からの質問も多かった。
中国語ネイティブならではの疑問あり、日本語ネイティブでも抱える矛盾あり。
定義された正解がないだけに、色々と刺激になる。

自分の視点を設定したら、動かさないこと。
状況や背景についての情報がなければ仮定してもよいが、その仮定を通すこと。
日本人が見て違和感のない文にすること。

概ねその3点を押さえていれば減点評価されることはない。
それでも引っかかる「何か」の探求がグループ授業の面白み。
なるほどそういう解釈があるのかと感心することも多い。
一方で何かぎこちない、通りが悪い表現もちらほら。
その文意であれば表現はこうだろう、と提案すると、大抵はそのまま通る。
「ああ、なるほど」
「言われてみればそうですね」
となって次の話題へ、となることが多い。
気になるのは「そんな日本語あったんだ」。
普通では思いつかない表現ということ。
こんなことも知らないのかと思ってはならない。
「普通」であればどう表現されるのかに耳を傾ける必要がある。
当てた訳語/表現が実際に正しいのかを立ち止まって考えるべき合図だ。
みんなで考え直してそれでも正しいのであれば、一つの解として成立。
異議を出されたら説き伏せるのではなく、その意図に沿った修正を考えてみる。
別の視点から出た弊害がないか前後の文と見比べて通りを判断する。
独善を改め表現の幅を広げるまたとない機会だ。
一方で単純に語彙不足のせいだろうということもある。
辞書にある訳語とその類義語が出せれば足りるというものではない。
自分の言葉として使いこなせているかだ。
原文の場面設定上、書いたことのない話題のことも多々ある。
だからと言ってぎこちない日本語のまま放置してしまうと和訳は完成しない。
「なんか気持ち悪いんですけど、解らなくてそのままに…」と苦笑した人がいた。
学習の場だからそれもありだろう。
実務では、…。
その辺りが自分のプロ意識なのかもしれない。
何とかなるまで、何とかする。
但し自分が信じる経済的合理性の範疇で。
時には調べものだけで日が暮れることも、申し送りが訳文より長くなることもある。
そこで通す筋こそが、自分の筋ということか。

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