誰が

日本語では主語を立てず「~と言われています」調の表現が多い。
しかし昨今、誰が言ったのか裏を取るのは意外と簡単になっている。
また仕事などでは発言元によって内容の信憑性を判断することも言わば常識。
切り取られた一部の言葉が跋扈しやすい今日でも「誰が」発信したかには意味がある。


こうして書いている個人の日記でも、見ず知らずの人の目に止まることはあるようだ。
見ず知らずであれば万事「ふうん」で済まされるかもしれない。
一方、特定の関係にある人には新鮮な驚きや幻滅の芽も見て取れるのではなかろうか。
無用な心配はかけたくないので、無名の一個人とて最低限の配慮は心がけている。
それでも、見て「勝手に傷つく」人の対処だけはどうにも思いつかない。
せめて何が不快だったのか伝えてもらえれば回避のしようもあろうものだが。
中には自身が傷ついていなくとも第三者の代弁と称して中傷をくれる人もいる。
それでも何もないよりは幾分ましだ。
9ヶ月間、同級生と一言の会話もなかった経験者としては。
すべてが頭上を通り過ぎていくぐらいなら小刀でも降ってきてほしい時はある。

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