書名だけで『英会話不要論』なる本を手に取った。
英語教育の歴史と現状、言葉の壁のあちらとこちらが丁寧に説明されていて面白い。
が、行方先生が英会話が不要だとは主張されているようには見えなかった。
今回はいい方に裏切られたが、書名や帯だけで本を買うべきではないと反省。
翻訳文でも公開記事や出版物などには編集者と呼ばれる人々の手が入る。
文章全体の推敲のみならず章見出しや小見出しの加減も彼らの仕事らしい。
原文の内容を伝えるための翻訳からは逸脱して見えるものも結構ある。
逸脱と言っても必ずしも奇怪なものではない。
文字情報としては原文に含まれていなかったが大意をまとめるとそうなるもの。
読みやすい順に段落単位で流れを入れ替えた結果できた文章にはふさわしいもの。
「わかりやすさ」のために加減されたもの。
完成イメージに合わせるためのもの。
どれを取っても言ってしまえば程度問題だ。
納品した訳文から流れや見出しのイメージがかけ離れていることもままある。
人の手が入った結果、納品時にはなかった誤字脱字が生じることもある。
自分が書いた文には見えないものに化けていることもある。
良くも悪くも。
一方、記事の見出しや要約部分のみの翻訳案件というものもある。
中国紙の経済面ヘッドラインを時間制限つきで毎朝という案件もあった。
今にして思えば割が合わない重労働だったかもしれない。
よくある「原文1文字n円」の契約だったが、課金対象は飽くまで原稿文字数だ。
支給原稿が500文字だったら報酬は500n円にしかならない。
しかし支給原稿だけでは全く話が見えずニュース記事全文を探す必要がある。
言葉そのものというより言語習慣の違いで直訳では何の役にも立たないからだ。
※直訳はそもそもいただけないという突っ込みは受け付けません
全文を熟読して、ヘッドラインの体裁に合わせて、あるべき見出しを提案する。
前述した編集の仕事のようなことも込みで、時間の制約を受けながら。
せめて基本料金の3割増ぐらいで請求すればよかったか。
まあその頃があって今があるのだし後悔はしていないからいいとする。